クリスマスの憂鬱
再び一年で最も憂鬱な時期がやって来た。街のそこかしこにクリスマスツリーの灯りが灯り、町全体がそこはかとなくきぜわの空気が漂い始める頃、僕の気持ちは日々増してゆく街の賑いと
は裏腹に重く空しくさえなる。ある人はこんな僕を変人呼ばわりする。 キリスト降誕を祝す一年で最も神聖で厳粛であるべきこの時期。何故人々はしばし立ち止まり、慌ただしい日々の中で
擦り減っていく自己の心を見つめ、内省的時を過ごそうとしないのか?一年に一度くらい日頃の
ノボセをさまし、無数の星に散りばまれた夜空に向かって深く息を吸い込み、永遠、無限という次元から人間の存在意義、真実の生き方を説いたキリストをはじめとした先人たちの教え、叡智に接し新たに自分の人生を捉え直してもよいのではないか?ちょとお堅いじゃない?と反発を唱える人もいることは十分承知。 そうした僕の思いと街全体を包むお祭りムードの落差が僕の気持ちを孤立へと追いやる。僕は絶対世界には僕の気持ちとシェアできる人がいると信じているが。
孤独な魂同士の軌跡的出会い
そんな時人生そのものに真っ向に向かい合い、ある時はよろけ、挫折、絶望を繰り返し、ギリギリの地点で生を肯定的の受け入れた葛藤と苦悶に満ちた人生を生きた偉大なる高貴な魂に触れることは救いだ。というわけで、毎年この時期僕はタイムトンネルを通り精神的癒しの旅にでる。 僕は自己の人生を正当化するためにあらゆる詭弁を弄し尤もらしい理由の上に成り立った
妥協と安逸を目的とする世間的価値観に偽善的なものを感じ、そこには絶対的心の拠り所はない絶望的に感じて以来、幾人かの本物の人生の師に出会った。過去にも僕と同じ悩みを苦しみ、その悩みを血と涙で克服した人がいた!この発見は孤独にさいなむ僕の心を何と勇気ずけてくれたことか。この時空感を超えた孤独な魂と魂の出会い。それは砂漠でオアシス見つけるのに等しい。ここに本当に信頼できる人がいた。彼らの想像を絶する苦悶の末に見出した人生の方向性は前方に広がる暗闇の中で光の道しるべの様にさえ感じた。
出会った師が示した教えの中枢
その彼らの教えには共通するものがあった。それは要約すると、感情を許さず理知の光のみで冷徹に人生を見るならば、世は無常で我々はただ生まれ死んでいくのみだ。その理が行き着いた限界地点で安易な世間的価値観の誘惑に惑わされることなく、もがき苦しみ続けていると、結局自分の苦しみの根源は我という意識ということに気ずく。そこで一度我という意識を捨て去る。
すると何と心は軽くなり世の中は以前とは異なって心に映る。というのが彼らの教えの中枢であるが、そこにはすべて無我の考えが土台にあると僕は感じた。
多くの教えの中で何故禅を?
そうした多くの教えの中で最終的には僕は禅に辿りついたわけだが何故禅であったかをここで若干語りたいと思う。その理由は一言で云うなら禅には我という基軸がないということである。他の教えは全て我という意識と自分を取り巻く対象物との関係性を問題にしている。しかし例えば視界が捉える目の前の猫から想像が捉える大宇宙ので彼方まで全ては中心点の自分という存在がなくなったら万物は存在し続けるのか?という疑問である。この問いが青春時代より心に引っ掛かり、あれ程までに聖フランチェスコの純粋性、無垢なる魂を愛しながら彼の教えを全面的に受け入れることができなかった理由である。しかし自分という核が消滅したなら、一体どのようにして自己と世界の関係性を築き、そこから無常という絶対真理を見定めながら真理に則った人生を歩み出す事が出来るのだろうか?そしてその道には最終的に平安な心が約束されているのだろうか?ここが僕が一番苦しんだところだ。この問いに唯一納得いく答えを示していたのが禅であったということだ。つまり無心、空、般若の教えであった。
無心の教えとは?
無心は絶対意識では捉えることはできない。それは絶対的自己否定の上に成り立っている。枯れ葉舞う秋風に吹かれ大自然に全てを委ねその情景の中に溶け込んでいる白髪の仙人。それが無心の象徴的イメージだ。無心ということは我と外界物の対立はない。つまりそれぞれがお互いに溶解し合い同化してる。我が動くと外界物も一緒に動く。一心同体だ。一瞬でも自己意識するとその関係性は崩れる。又我という中心がないから時の流れにも左右されず過去も現在も未来もその分断はない。ただ過去も未来も凝縮した今があるだけだ。僕は聖フランチェスコが神の声を聴いたときこの無心の境地に達していたと解している。が、その後彼の無心に理が介在し彼の内的経験をキリスト教的に解釈したところが禅と袂を分かれるところだ。もし聖フランチェスコが天国において我々の魂は救われるという意識すら捨て去ったとしたら、もっと共に戯れた小鳥たちの心に近ずいたかもしれない。つまり僕が他の教えではなく、禅に惹かれたかはキリスト教を始めとする他の教えは固定的で人為と理知の臭いがし、禅には流動的で土臭い自然の臭いがしたからだ。
悟り臭さを抜く修業
禅には聖胎長養といって、自分の悟りすら意識せずしてその悟りが血肉に流れるように全国行脚して悟り臭さを取り除く修業がある。禅僧の中には河原乞食に混じって過酷な修行をする者もいる。何がそこまで彼らを駆り立てるのか?それは死よりも怖い実存の深淵を垣間見てしまった者の、真の心の故郷を探し求めての血の滲む全てを投げ捨てての模索なのだ。その道は僕の前に果てしなく延々と広がる。いつの日のことだろうか?その故郷に帰還できるのは?その時僕はこのクリスマスの賑いを穏やかな気持ちで迎えることができるかもしれない。