数日断食した後、水を喉に通した時の水分が全細胞に広がっていくあの生きているという実感。不快と感じる故に、そこに実際存在するものを虚飾的の物で覆い隠し、全て人間の本能の快を求める性向の上に成立した人為社会が大自然の気紛れで一瞬のうちに崩壊し、それまで目を背けていた全てが赤裸々に露呈した時の絶望の後に心のうちに訪れる奇妙な安堵感。そうした実感を求めインドへと旅立ち、ブッダガヤでは一心不乱に五体投地を行うラマ僧達、又ダライラマを待ち望むチベット人達の路上の人垣、そしてマザーテレサの施設「死を待つ家」でのヴォランティア活動を行い、それまでとは異次元の事を経験しました。そこには「これがナマの人生と言うものだよ!」と否が応でも目の前に突き付ける強烈な現実がありました。最少はオッカナビックリの逃げ腰。しかしパンドラの箱は開かれた。「その箱の中で見たものと生きていく以外に術がない。」と言う居直りの気持ちが生まれてくるとそれが解放感へと変化していったのを記憶しております。下記の文章は僕のインド滞在後期の経験をつずったものです。
ヨガ行者との出会い
緊張の連続で疲れ切った身と心には、ヤシの葉を揺るがす海風、無窮に広がるベンガル湾は何よりの慰安だった。又冷えたヤシの実のジュースは、限りなく甘かった。この延々と続く白浜をベンガル湾を眺めながら唯ブラブラと何もせず無為に過ごすことにした。
行きつけのレストランの給仕とも顔見知りになり、疲れも大分癒えてきたある日、海岸からの散歩の途中いつも気になっていた英語でデイバダム・ヨガアッシュラムと言う表札の掛かった高い門の前を通りかかった時、一人のヨガ行者が出てきた。顔見知りの給仕によると、そこはヨガ道場で時には外国人の生徒もいることがあるという。好奇心が僕の心を捕えた。早速接見の機会を得て生徒になる事を許された。その行者はまだ年の頃30代前半で、中国の老荘思想、仏教にも深く通じた知識人でもあった。ベンガル湾の海鳴りがまじかに聞こえる、海に面した道場の一室でヨガの手解きが始まった。午前はインド哲学の奥義書ウッパ二イ・シャドの解説がなされ、午後には初歩のヨガのポーズの実践教育があり、最後はオームと言う全宇宙を一つに表わした言葉を静かに心のうちに向かって発しながら始まるメディテーションで一日が終わった。時は永遠を刻んでいた。
自己とは何か?
行者によると時の始まり以来存在するアートマンと言う不滅の自己が、肉体が滅びる度に再生を繰り返し、最終的修業の進んだ結果は、この苦に満ちた現世に生まれ変わることなく、宇宙の源ブラフマンに帰するという。全ての説明は明確であり万物の生起は漏れなく説明されていた。しかし僕には
腑に落ちない点があった。それは一体アートマンの存在を本当に信じられるか?と言う問いであった。僕の西洋的、実証的思考は不確かなものの受け入れ事を阻んだ。
ヨガの勉学が一か月を過ぎ去ろうとしているある日、僕は海岸線を歩きながら考えていた。「フランスの哲学者デカルトは”我思う故に我あり”と言う第一命題に辿り着き、自分の哲学を打ち立てた。」僕はその時西洋の哲学書をひも解き哲学的になり切っていた。それは自己とは何かと言う、無限なる宇宙のもとで自己の実存の究極的問いを明らめんとする衝動でもあった。「しかし我とはそんなに絶対的信頼を寄せることが出来るものだろうか?一瞬一瞬自己は変化して止まない。数年前の自己は思い返してみると他人の様な気がすることがある。又肉体を通してアイデンティティーを図ろうとも
肉体は移ろいやすく、事故等によって変形し、元の形跡すら
留めないこともある。又脳裡に映った一瞬の感情、思考も真の我とは言い難い。絶対的に信頼を寄せた我が消滅した後、その今我を通して認識している対象物は引き続き存在し続ける保証はどこにもない。今目の前にある対象物も目を閉じると消え失せる。それと同様自分の死と共に全てが消え失せてしまう様な気がする。全てが夢のようであり、生は不思議である。結局どこにも我が無いとしたら、脳に映った対象物と自己にどこに違いがあるのだろうか?自己イコール対象物という事にもなりうる。
自己消滅=至上の喜び
「自己と対象物は同一である。」ここまで考えを進めて、僕は何気なく沖を見やった。すると沖合に力強くカイを漕ぎながら海岸に戻ろうとする漁師たちを乗せた一艘の漁船が目に入った。何かが僕の心の中で弾けた。南国の突き抜けるような空があった。僕は今、主体そのものに成り切っていた。海の泡となり、鳥ともなり、全ての五感が経験できる全ての物に成り切っていた。僕と外界を隔てる薄い絹の様なベールが
消え去り、僕と世界は同化していた。それは僕が経験した至上なる喜びであった。僕は今自分と信じて疑わなかった自我が消え、新しい自己が僕の中で目覚めた様な気がした。今僕は宇宙の生成の大動脈の一部であることを自覚した。それは故郷に帰還したような安堵感に満ちた感覚であった。その晩
日本を離れて以来初めて両親、恋人、友達の事を思った。インド到着以来五カ月が過ぎ去ろうとしていた。今インドへと
駆り立てたものが何であるかを知り、目的も果たされたように思えた。再び日本で生活しようと思った。帰国前に行きたい所があった。それはヨガ行者が頻繁に言及したチルカ湖という所であった。日本に帰国する前に心の整理をするには打って付けな所に思えた。プリの町からはさして遠くはなかった。行者に暇乞いを告げチルカ湖への道筋を聞き翌朝旅だった。
かつての日本での生活は?(チルカ湖にて)
チルカ湖は詩聖タゴールを始めとした数多くのインドの傑出した詩人、芸術家、思想家に大きな影響を及ぼした土地柄に
相応しいものがあった。周辺は深い静けさに包まれ、わずかに湖畔に打ち寄せる波音、鳥のさえずり、微風だけが辺りの沈黙を破った。ホテルの前方に広がった湖は、無休の広がりを見せ水平線に沈んでいた。夜になると湿地帯に生い茂った
草木には無数の蛍が飛び回り幻想的なムードを作り出していた。ここでは時は存在しないも同然だった。そうした悠久なる時間に身を任せ僕はこうした状況でいつも苛立ちを覚えていたのを思い出し苦笑した。確かに日本での生活は自虐的であった。只慌しく奔走しているのみで本当の心からの充実、満足と言う実感からはかけ離れ通り、時としてそこに「心が関与していないのでは?」と感じる事さえあった。それは自己との直面を逃避する事に目的が置かれ、娯楽、レジャー等がその手助けをしていた。人々は一瞬たりともじっと沈黙をしていることを恐れ、饒舌家の乾ききった声がアブの様に人々の耳元を擦過していた。切迫した衣食住の心配から解放された人々の関心は飽食、セックス、奇態な目新しいものや
出来事に向かい一時の官能的喜びを求め飽くことなく追従が
行われた。その追従は心の渇きを癒すかのように執拗に続けられ充足されては又求めた。それは人間が大自然の中の唯の
落とし子に過ぎないという事を忘れた傲慢な社会だった。しかし人人も又犠牲者だった。人間の野性的、原始らの叫びが、過度に管理され、抑制され、健全に消費されることのない社会では、その出口をどこかに見出さねばならないからだ。
人生の暗と明部 (星と闇との下で)
その晩僕は日中知り合った茶屋の店主の勧めで当地有名な月の出を見に、一艘の船に乗って沖に出ることにした。その晩は雲一つなく夜空は無数の星が散りばまれ闇との絶え間ない
呟きが交わされていた。僕の乗った船はカイを漕ぐたびに生じるギー・ギーと言う連続的な音を立てながら沖へ沖へと進んで行った。既に周辺は闇と化していた。暗闇に包まれた湖上の真ん中で僕はただ一人。僕の意識だけが自分を生を確信させてくれる拠所だった。月の出は遅かった。沈黙に耳を傾け静かに待った。多くの事が僕の脳にに訪れては消えていった。人や動物の排泄物、腐乱物の散乱したコルカタのスラム街、焼けつくようなギラギラした太陽の下で板の台の上に乗せられ、数人の人々の肩に担がれ町を縫って火葬場へと運ばれていく死体、絹のサリーを優雅に着飾った婦人の行きかうコルカタ繁華街の路上のらい病に侵され手首共々歪んで立つこと来ず体を地面に横たえたまま物乞いする老婆、1ルピー
[約10円)を得るために執拗に旅行者に追いすがる不可触せん民[インドの最下層の人人)の少女たち、どれもが皆人生の一側面を映し出し真実を伝えていた。確かに日本での生活も人生の一側面であった。しかしそれは全てではなかった。人間は明るいもの、快い物を自ずと好む性向を持っていた。しかし人生の暗部を一生押し隠すことは不可能だった。
真実を目隠しした社会はいずれその歪みが現れ安定感を失う宿命にあった。世界は全て両面あわせもっていた。美と醜、
貧と富、強者と弱者等、それらを全て合わせ持ったのが世界だった。それらはどちらも善とか悪とかいう人間的価値判断を離れて存在し、我々と同時代を呼吸していた。穏やかな感情が僕の心に訪れた。それは死刑因が自分の死を受け入れた時の穏やかな心に似ていたもしれない。前方の暗闇から、明かりが薄ら漏れてきた。ついに月の出の始まりらしい。僕は力強くカイを沖へと進めた。その方向に日本での新たな僕の生活が待っていた。