2019年4月30日火曜日

悟りたい 「痴聖への道」

自己愛に愛想が尽きて
「死者の世界は無政府だ。又、時間的限定を超えている。ゆったりとして悠久無限な時間を春とし秋とする。それは人間世界の帝王、君主の楽しみでも死者の世界にはかなわない。死者の世界における楽しみを捨て、再びあの人間世界の苦しみの中に身を置くなどまっぴらだ。」これは古代中国の哲学書「荘子」からの一節である。生きていることは苦悩の連続だ。その根源は我と言う意識だ。俺、私、僕。もうウンザリだ。「そんなに自分が可愛いのかよ~?」と自己愛の強さに
辟易する。と言いながら心の奥底でそんな自分を肯定している自己中毒の自分がいる。しかしこんな姿勢で生き続けていたらいずれ生き詰まることは明らかだと最近自覚し始めた。
自分の名刺の上に書かれた数多くの肩書に依存することが
不可能な宇宙的孤独が必ず訪れると知者は語っている。とは言うものの猜疑心に満ち満ち、実証できない物はすべて存在しないという姿勢で生きてき自分がいる。

端坐した禅僧の姿
そんな事を考えていた時先日、本で見た枯葉舞う銀杏の下で
静かな面持ちで端坐している颯爽とした禅僧の姿が脳に浮かぶ。そのイメージを脳裡に浮かべながらしばし名刺の上に書かれた肩書きのなかった前の自分を想像する。するとなんと心が軽くなるではないか!心にへばり付いていた心の重しが消え去った感じだ。

上せていた自分の人生
しかし何故か夜空に輝く星々は寒々しく、自分を突き離して
いる様にさえ感じる。又眼下に横たわる街並みは不気味にひっそりとしてよそよそしく感じられる。一体どうしたのだ?この僕の心の変化は?只只今迄の僕はノボセていたのだ。全てノボセて物事を見、生きてきたのだ。不安が僕の心一杯に広がっていく。知者の語るノボセにきずいた後訪れるこの世のものでは癒すことの出来ない耐え難き寂寥感を鎮め無重力の空間に漂っている様にさえ感じる失われた確固たる人生の足場を見出さねば!暗黒の宇宙に投げ出さるとはこういうことを言うのか?

絶対的心の平安の道とは?
その探索とは永遠の古里への道を探すという事かもしれない。全く不安の入り込む余地のない裂け目のない自分と外界が溶け合った世界への道だ。「そんな世界があれば?」と考えていた時ずっと昔に読んだ禅の「十牛図」と言う本が脳裏に浮かぶ。それは禅の境地を十段階に表わした真の平安へと
導く禅僧の死を賭した苦闘の軌跡だ。そんな苛酷の道など自分の力量では、それに今この年でと言う気持ちはある。しかしこの途方もない絶望感を鎮める方法が他にあるのか?追い詰められた。その道を歩んでいく以外に術はない。歩き始めよう。トボトボと。そんな心境で次回のブログから十段階の道を辿って行きたいと思います。