体中一杯くっつけやって来て、部屋中まき散らし、食事がすむと、雨の日は部屋の真ん中に大きなずう体を両手両足を伸ばしきって仰向けに横たわり、時として猫の分際で大いびきをかき、晴れた日はどこへ行くやらプイと出て行ってしまう。又、ボアが寝ている時その邪心無き顔を撫でてみても、半野良のありながら全く警戒心はなく撫ぜるがままに任せ、まるで「俺は眠たいんだ。誰が触ろうと眠たいときはただ眠る。」と言ってるがごとく常に自分の欲する行為の中にいる。ボアの生き方に逡巡はない。一瞬一瞬の行為の間に分断はなく、常に神の啓示を受けて
行動している様にさえ見える。そこには我という意識から生じる
苦悩はない。つまり禅僧が自己意識から生まれる苦悩を克服するために一生かけて辿りつく着く無心の境地を努力せずして既に体得している様にさえ見えるのだ。
猛吹雪も、もろともせず
ある真冬日の事だ。前日から猛吹雪になり 、雨戸に吹雪が容赦なく打ち付け翌朝起きてみると庭は銀世界になっていた。雪はくるぶしまで積もっている。前日から「いくら自由を愛するボアでも
今夜は家の中に無理矢理でも閉じこめておかなくては」と、考えていたのだが、夕食を食べ終わるといつもの様にプイと出て行ったまま姿が見えない。「禅猫、ボアの事だ。死のようなことはないだろう。」と上さんと話していたが、心の中では心配しながら一夜を過ごす。翌朝朝食に来るボアを今か今かと待っていたが一向に現われない。通常の朝食時間から遅れること3時間。来た。
雪の中をズボズボと体を埋もれながら飛ぶようにこちらに向かってくるのは紛れもなくボアだ。その日光を浴びた雄姿は極限状態を生き抜いた者のみもつ威厳すら感じられる。どんな状況でも身一つでさっそうと生きている生き様は、運命を受け入れている。生活保護、弱者救済の様なものとは全く違った地平線で
ただ、お天道様の下を大地を踏みしめ闊歩し「命尽きたら、その時までよ。」云ったその覚悟は毅然として気高ささえ漂っている。
仏陀の微笑みを浮かべたボア
小春日和の麗かなある日。ボアは珍しく食事を終えても窓際で日向ぼっこをしている。顎を前にだらしなく突出し、うつ伏せに
横たわり全身力を抜いて畳に身体を投げ出している。目を閉じ平安に満ちたその表情はさながら仏陀の微笑みといたところだ。そんな精神て高い境地に達しているように見えるボアを見て、その心の中を覗くてみたくなった。そばには上さんがいる。
一体ボアは上さんをどう思っているのだろうか?又、ボアと僕の
上さんに対する認識はどう違うのだろうか?等の愚問が僕の心の中に湧いてきた。
消えた上さん
僕とボアの目の中に上さんの姿が映る。ここまでは僕とボアの間に違いはないであろう。その先の認識となると・・・と考えたのころで全く想定しなかった疑問が僕の心の中に起こった。僕とボアの目の中に映った上さんはカメラのレンズを通して見た被写体と同じで、上さんそのものではない。僕達の網膜に映った上さんが肉体を持った実際の上さんどうして同じと言えるのか?しかし僕は自分の知覚神経を通すしか上さんを認識できないのだ!目を閉じる。すると上さんは消える。耳をふさぐ。すると上さんの声は聞こえない。もし、もし、僕とボアの様な上さんを映し出す鏡のようなものが存在しなかったら、どうして上さんは存在しているといえるのか?地面の蟻、星、いや宇宙の存在さえ同じだ。結局、すべてが僕たちの心が作り出す創造物に過ぎなく、その物自体を存在しないということになるではないか?この疑問に僕の心は驚愕し、とてつもない不安が僕の心を覆った。そしてまじまじと上さんの顔を見た。
僕の心が作り出す上さん
では今まで僕が上さんと認識していた存在は何者?背が高くなで肩の人。自己主張せずいつも損をしている人。人とちょっとずれて涙を流す人。と云った表面的な僕の意識の中の彼女の記
憶。そして僕の主体の基層を形成した僕の潜在意識の奥底にに眠っているこれまでの無数の経験。例えば、僕は9人の従弟で一番下だった。事あるごとに、「お前はビケなんだから」の苦汁をなめてきた。そうした僕の無数の記憶が僕の目に上さんの像が映った時一瞬のうちに作用し、損得に根差した我欲に着色され僕の上さん像を作り上げる。という事なのか?しかしそれはあくまで僕の主観が彼女の存在を作り出すわけで、上さんそのもではない。
ボアの心が作り出す上さん
ではボアが認識する上さんとは?上さんのボアに対する扱いは比較的クールだ。僕がいない時は僕に代わってボアに食事をあげてくれるが、自ら撫ぜることはない。ボアにとって上さんは最重要な存在とは言い難い。と云ったところがボアの上さんに対するイメージだろう。そうしたボアの上さんへの記憶。
そして鋭敏な猫の嗅覚を通しての上さんに対する好悪感。又、
ボアが生まれた直後口にくわえた母親の乳房の感触と云ったボアの潜在意識の中に埋もれたボアの主観の根源となっている
そうした生れて以来の無数の経験(時として僕の指を吸うのはそうした遠い過去の記憶か?)が影響し合いやはり僕の上さん像を作り上げる。という事なのか?しかしボアの心が作り上げた上さんはもちろん上さん自身ではない。では上さん自身は一体どこに?
上さんそのものに触れたい
僕は上さんそのものに触れたい。知覚神経を通さず直接上さんの存在を感じたい。そんな術が?そして僕は考える。そうだ。上さんそのものに触れることは僕を取り囲む全ての存在に達することと同じことではないか?すると、上さんそのものに達することとは、拡大解釈するならば何事も一瞬として留まることのない無常なる真実の世界、いや宇宙にも直接触れること同じことではないか?と云う考えが湧いてきた。
ボアが帰ってこない
もう5日になる。ボアが最後に食事に来てから。数日の外泊は過去にもざらにあった。しかし5日も来ないことはなかった。どこで食事をしているのだろうか?不安は募る。僕の五感は全てボアの帰還に向かっている。ほんのちょっとしたした気配、足音に
「もしかしたら?」と心はピリピリしている。近隣を散歩しても「どこかにボアが…」と心休まることはない。こんな気持ちは初恋以来だ。一か月が過ぎ去った。あの天真爛漫な顔、でかいずう体
はもう二度と見られないのか?邪心無き物を失うことは深く心痛む。帰ってこない。帰ってこない。今一体ボアはどこに?待つこと三か月。「ボアはもう帰ってこないだろう。」の思いに今もなお心痛む。しかし、一方こうも考えるようにもなってきた。「さすがボアだ。突如僕のもとに現れ突如消えていった。ボアが僕の心に残した余韻に感傷はない。何故かすべて爽やかだ。身一つで天地を生きた者のみ残す爽やかさだ。
ボアが示した生き様
ボアは僕に多くの事は残してくれた。畢竟、我々が「有」と思っている全ては実体はなく我々の心が作り出した創造物に過ぎなく
真実は「空」である事。ボアが突如現れ消えて行った様に全ては刻々と移り変わり、地球さえもいずれ消え去る運命にあるのだという事。この耐え難き絶対真理に対し、人類はあらゆる詭弁を弄し人間存在の意味付けを行ってきた。ある文化では神を持ち出し、ある文化では人間社会にのみ意識を埋没させることによって。しかしボアは、人間が歴史を通して避けてきた絶対真理を受け入れ、飄々と生きた。ボアの目には元気いっぱいを装っている今日の老人の目の中にみられる実存の影、死の不安はなかった。常に枯渇することないみずみずし生命の泉が湧き出てい様に見えた。ボアの全行為は永遠に結びいていた。だから逡巡はなく、行為と行為の間に亀裂がなかった。ボアの意識は常に能動的だった。ボアは真の自己とは世界を映し出す鏡で、真に生きるとは刻々変化する世界を真っ白な心で映し続
けるという事を本能的に知っていたのかもしれない。生きるとは
見ることであり、聞くことであり、触れることであり、考えることである。よって他者に認識される自分は自分そのものではない。
もちろん自分の死体も他者の認識に過ぎない。それは他人に任せておけばよい事だ。
人間色から解放された無心の世界
それでは上さんそのものに達する方法とは?それは自分の心を
限りなく無色透明にし、純白になった心で上さんんを映し出すことによってのみ可能となるということであろう。自己意識が完全に消滅したとき、僕と上さんは融合し一つになり僕と上さんの区別がなくなる。しかし一瞬でもそうした状態を対象化しようとすると僕と上さんは離れ、上さんは僕の作り出した上さんに変化する。僕を取り囲む世界も同様、僕の心が純白になった時本当の姿が現れるということだろう。僕たちはそれに近い経験を日常生活で既ににしているかも知れない。例えば、結果にこだわらずある一つの事にすべてを忘れ無心に成り切って没頭したときのあの心の張りと充実感。その時何の不安もなかった。その時僕たちは人間の認識を超えた生死のない永遠と無限の世界に足を踏み入れていたのだ。
全てが寝静まった深夜。どこかで猫が鳴いている。「あの鳴き声はもしかしたら…・・?」
猛吹雪も、もろともせず
ある真冬日の事だ。前日から猛吹雪になり 、雨戸に吹雪が容赦なく打ち付け翌朝起きてみると庭は銀世界になっていた。雪はくるぶしまで積もっている。前日から「いくら自由を愛するボアでも
今夜は家の中に無理矢理でも閉じこめておかなくては」と、考えていたのだが、夕食を食べ終わるといつもの様にプイと出て行ったまま姿が見えない。「禅猫、ボアの事だ。死のようなことはないだろう。」と上さんと話していたが、心の中では心配しながら一夜を過ごす。翌朝朝食に来るボアを今か今かと待っていたが一向に現われない。通常の朝食時間から遅れること3時間。来た。
雪の中をズボズボと体を埋もれながら飛ぶようにこちらに向かってくるのは紛れもなくボアだ。その日光を浴びた雄姿は極限状態を生き抜いた者のみもつ威厳すら感じられる。どんな状況でも身一つでさっそうと生きている生き様は、運命を受け入れている。生活保護、弱者救済の様なものとは全く違った地平線で
ただ、お天道様の下を大地を踏みしめ闊歩し「命尽きたら、その時までよ。」云ったその覚悟は毅然として気高ささえ漂っている。
仏陀の微笑みを浮かべたボア
小春日和の麗かなある日。ボアは珍しく食事を終えても窓際で日向ぼっこをしている。顎を前にだらしなく突出し、うつ伏せに
横たわり全身力を抜いて畳に身体を投げ出している。目を閉じ平安に満ちたその表情はさながら仏陀の微笑みといたところだ。そんな精神て高い境地に達しているように見えるボアを見て、その心の中を覗くてみたくなった。そばには上さんがいる。
一体ボアは上さんをどう思っているのだろうか?又、ボアと僕の
上さんに対する認識はどう違うのだろうか?等の愚問が僕の心の中に湧いてきた。
消えた上さん
僕とボアの目の中に上さんの姿が映る。ここまでは僕とボアの間に違いはないであろう。その先の認識となると・・・と考えたのころで全く想定しなかった疑問が僕の心の中に起こった。僕とボアの目の中に映った上さんはカメラのレンズを通して見た被写体と同じで、上さんそのものではない。僕達の網膜に映った上さんが肉体を持った実際の上さんどうして同じと言えるのか?しかし僕は自分の知覚神経を通すしか上さんを認識できないのだ!目を閉じる。すると上さんは消える。耳をふさぐ。すると上さんの声は聞こえない。もし、もし、僕とボアの様な上さんを映し出す鏡のようなものが存在しなかったら、どうして上さんは存在しているといえるのか?地面の蟻、星、いや宇宙の存在さえ同じだ。結局、すべてが僕たちの心が作り出す創造物に過ぎなく、その物自体を存在しないということになるではないか?この疑問に僕の心は驚愕し、とてつもない不安が僕の心を覆った。そしてまじまじと上さんの顔を見た。
僕の心が作り出す上さん
では今まで僕が上さんと認識していた存在は何者?背が高くなで肩の人。自己主張せずいつも損をしている人。人とちょっとずれて涙を流す人。と云った表面的な僕の意識の中の彼女の記
憶。そして僕の主体の基層を形成した僕の潜在意識の奥底にに眠っているこれまでの無数の経験。例えば、僕は9人の従弟で一番下だった。事あるごとに、「お前はビケなんだから」の苦汁をなめてきた。そうした僕の無数の記憶が僕の目に上さんの像が映った時一瞬のうちに作用し、損得に根差した我欲に着色され僕の上さん像を作り上げる。という事なのか?しかしそれはあくまで僕の主観が彼女の存在を作り出すわけで、上さんそのもではない。
ボアの心が作り出す上さん
ではボアが認識する上さんとは?上さんのボアに対する扱いは比較的クールだ。僕がいない時は僕に代わってボアに食事をあげてくれるが、自ら撫ぜることはない。ボアにとって上さんは最重要な存在とは言い難い。と云ったところがボアの上さんに対するイメージだろう。そうしたボアの上さんへの記憶。
そして鋭敏な猫の嗅覚を通しての上さんに対する好悪感。又、
ボアが生まれた直後口にくわえた母親の乳房の感触と云ったボアの潜在意識の中に埋もれたボアの主観の根源となっている
そうした生れて以来の無数の経験(時として僕の指を吸うのはそうした遠い過去の記憶か?)が影響し合いやはり僕の上さん像を作り上げる。という事なのか?しかしボアの心が作り上げた上さんはもちろん上さん自身ではない。では上さん自身は一体どこに?
上さんそのものに触れたい
僕は上さんそのものに触れたい。知覚神経を通さず直接上さんの存在を感じたい。そんな術が?そして僕は考える。そうだ。上さんそのものに触れることは僕を取り囲む全ての存在に達することと同じことではないか?すると、上さんそのものに達することとは、拡大解釈するならば何事も一瞬として留まることのない無常なる真実の世界、いや宇宙にも直接触れること同じことではないか?と云う考えが湧いてきた。
ボアが帰ってこない
もう5日になる。ボアが最後に食事に来てから。数日の外泊は過去にもざらにあった。しかし5日も来ないことはなかった。どこで食事をしているのだろうか?不安は募る。僕の五感は全てボアの帰還に向かっている。ほんのちょっとしたした気配、足音に
「もしかしたら?」と心はピリピリしている。近隣を散歩しても「どこかにボアが…」と心休まることはない。こんな気持ちは初恋以来だ。一か月が過ぎ去った。あの天真爛漫な顔、でかいずう体
はもう二度と見られないのか?邪心無き物を失うことは深く心痛む。帰ってこない。帰ってこない。今一体ボアはどこに?待つこと三か月。「ボアはもう帰ってこないだろう。」の思いに今もなお心痛む。しかし、一方こうも考えるようにもなってきた。「さすがボアだ。突如僕のもとに現れ突如消えていった。ボアが僕の心に残した余韻に感傷はない。何故かすべて爽やかだ。身一つで天地を生きた者のみ残す爽やかさだ。
ボアが示した生き様
ボアは僕に多くの事は残してくれた。畢竟、我々が「有」と思っている全ては実体はなく我々の心が作り出した創造物に過ぎなく
真実は「空」である事。ボアが突如現れ消えて行った様に全ては刻々と移り変わり、地球さえもいずれ消え去る運命にあるのだという事。この耐え難き絶対真理に対し、人類はあらゆる詭弁を弄し人間存在の意味付けを行ってきた。ある文化では神を持ち出し、ある文化では人間社会にのみ意識を埋没させることによって。しかしボアは、人間が歴史を通して避けてきた絶対真理を受け入れ、飄々と生きた。ボアの目には元気いっぱいを装っている今日の老人の目の中にみられる実存の影、死の不安はなかった。常に枯渇することないみずみずし生命の泉が湧き出てい様に見えた。ボアの全行為は永遠に結びいていた。だから逡巡はなく、行為と行為の間に亀裂がなかった。ボアの意識は常に能動的だった。ボアは真の自己とは世界を映し出す鏡で、真に生きるとは刻々変化する世界を真っ白な心で映し続
けるという事を本能的に知っていたのかもしれない。生きるとは
見ることであり、聞くことであり、触れることであり、考えることである。よって他者に認識される自分は自分そのものではない。
もちろん自分の死体も他者の認識に過ぎない。それは他人に任せておけばよい事だ。
人間色から解放された無心の世界
それでは上さんそのものに達する方法とは?それは自分の心を
限りなく無色透明にし、純白になった心で上さんんを映し出すことによってのみ可能となるということであろう。自己意識が完全に消滅したとき、僕と上さんは融合し一つになり僕と上さんの区別がなくなる。しかし一瞬でもそうした状態を対象化しようとすると僕と上さんは離れ、上さんは僕の作り出した上さんに変化する。僕を取り囲む世界も同様、僕の心が純白になった時本当の姿が現れるということだろう。僕たちはそれに近い経験を日常生活で既ににしているかも知れない。例えば、結果にこだわらずある一つの事にすべてを忘れ無心に成り切って没頭したときのあの心の張りと充実感。その時何の不安もなかった。その時僕たちは人間の認識を超えた生死のない永遠と無限の世界に足を踏み入れていたのだ。
全てが寝静まった深夜。どこかで猫が鳴いている。「あの鳴き声はもしかしたら…・・?」
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