2017年9月24日日曜日

大草原のど真ん中で坐禅

大草原での座禅
見渡す限りGreen,Green, Green の大草原のど真ん中で結跏趺坐をし、静かに胸いっぱい空気を吸い込む。僕の胸の中に入ってくる物は唯の空気だが辺り一面の草原さえ同時に
入ってくるようにさえ感じる。体内に流入してきた新鮮な空気。それは前夜の夜露を含み清澄極まりなくみずみずしい透明感に溢れている。その空気は僕の体内の奥深くまで隅々にまで渡って行く。そして静かに長い時間をかけてその空気を
体内から吐き出す。そうした行為を繰り返し繰り返し行っていると僕の脳が作り出したあるべき姿、苦悩等の全ての産物
から解放され、ただ僕の生命のみが呼吸している様にさえ感じてくる。

万物の実相
万物の実相は無常だ。何一つとして永遠に留まるものはない。その絶対的真理を意識することは耐え難き苦痛をもたらす。だから僕たちは自己の不朽化を求め七転八倒する。しかしカーテンは既に引かれ理性はむき出しの存在の実相を見てしまったのだ。子供だましの幼稚な論理は説得力不足だ。相対的人生の目標は達成してしまったらそこで終わりだ。一生涯にわたり僕たちの心に意義と充実を与えることはできない。いずれ実存的不安感、老いと死という究極の問題
に立ち向かわねばならない。では一生涯にわたり僕たちの心に充実と平安を与える術はないのか?と、僕は自問する。
ある!
体得こそ唯一の
それは無常という絶対真理の中に自己の全存在を投げだし
僕という主人公を手放した時、大草原で経験したときの様な
平安があると


。その方向こそ禅が究極的に指し示す方向で嘘偽りのない生命そのものを生きることではないか?と最近僕は感じている。それは知的理解では修得できない。知的理解は実際の状況ではなんと弱弱しく頼りにならないことか?体得。これが唯一の僕と大草原という対象の溝を埋め生命の極相を実現できる道ではないか?日々の生活はともすればウンザリするほど単調になる。しかしそこが僕たちの一瞬一瞬の地盤だ。当たり前の事を当たり前の事として行う。それも意欲的に淡々と。人生の困難は体得の最高の肥やしだ。飛び込んでいこう。この無上の世の中に。無常人として。大草原とど真ん中で坐禅をしているが如くに。




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