2012年6月17日日曜日

深海の静寂を求めた末に

                                                               after seeking the tranquily of the depths of the ocean              

why?
           他の宗教の死後の世界を聞いたとき感じる「本当?」
     
    という疑念は起こらず、現世と来世が合わさったありのまま
    
    の姿<空>の世界観を違和感なく受け入れることができた
    故。次のブログで詳細について語りたいと思います。          
    
                             Unlike the time when I feel a strong doubt of "Really?" after hearing of  the
                              conception of life after death in other religions ,I could accept the view of
                              existence " as it is " comprehending the present and the other world.
                                     For further talk, I' d  ike to continue it in my next blog.

2012年6月12日火曜日

仙人から学ぶ究極の心のセーフテイーネット

今日も眠れぬ夜の友
今日も寝つきが悪い。床に入ってからこれで4度目のトイレだ。明日早く起きねばならないと思うと
心は余計焦りを増す。1~10まで繰り返し数えてみる。ダメだ。次は心理学を利用し「眠ろうとするから眠れないのだ。逆に起きていようと思うと眠くなるものだ。」と試してみるが一向に効果がない。
こんな時隣でイビキをかいて深い眠りに入っている人がいると
その人にこのイライラをぶつけてやりたい気持ちがムラムラと湧いてくる。普段暇つぶし
に大きく依存している携帯電話が全く使えないただ自己の意識と対峙しなければならない状況。何もできずにただ床に横になっていると、尚更脳だけが活発化していき、あらぬ不安が次から次から浮かんでは消えていく。人間関係、金銭問題、健康不安・・・・そして全てが出尽くしたところで「今後どうなってしまうだろう?」という不安の感情だけが心にこびり付く。そのうち外は徐々に白みがかってくる。「あー!今日も眠れなっかた。」という経験をしたことはないかな?
世間では「不眠症対策」「悩みをさらば」の様なhow to 物の本が洪水のごとく書店の店頭を占有しているが、どれをとっても人間の心の不合理性、反理性的側面の地点まで降り立ち、不眠、悩みが生起する根源まで包括した本は皆無に近く、現実のギリギリの状況で生きた心の支えになるか極めて疑わしい。今日は不眠、受験、就活、また一人病院の廊下で癌の有無の宣告を待っているような、時には緊張のあまり頭が真っ白のなるような状況でいかに心を軽く持てるかという方法を論理的、哲学的の僕に教えてくれた心の恩師を紹介したいと思います。
僕の恩人は仙人
僕の師は2400年程前に生きた荘子という名の中国人の隠者。空想豊のな人で、両翼合わせて4000㎞にも及ぶ架空の大鳥を考えだし、その鳥を天高く40000㎞上空まで飛ばしその地点から我々人間の存在意義を真剣に考えた現実離れした発想の持ち主。その反面生死の様な人智を超えた問題には神仏を持ち出すことなく、その存在を否定も肯定もすることなく、最後まで理性と壮大な想像を持って考え抜いた現実感をも併せ持つところに現代人にも受け入れられる魅力がある。師は不眠、苦悩の原因の根源は我々の物の認識にあるという。我々誰でもが欲する美、富、生は相対的な物であり対極の醜、貧、死の存在により初めて成立するというのが師の論理だ。師は絶世の美女さえも鳥にはただ危害を加える存在にしか見えず、その価値は絶対的なものではなく我々が欲する全ての対象は人間的色眼鏡をかけた所産に過ぎないとも言う。師はこうも言い切る。「天空から地上の万物を見ると全ては差別はなく同じだ。」つまり師の語る世界観では勝ち組も負け組もないということである。師は続ける「美醜、貧富、生死、秀と愚、名誉と汚辱、を全て併せ持ったのが人間の色眼鏡取り去った後の真実の世界であり、そこではすべての対立概念を超えたありのままの姿が厳かに光り輝いている」と。なんと説得力のある教えではないか!その言葉は一時取るに足らないことで鬱屈した日々を送っていた僕には、「我々の不眠、苦悩を生んでいるのは、人生の片側のみに全面的価値を置いた狭い人生観だ。そんなちっぽけな意識を捨て去り、真実の世界に心を開けさえすればよいのだ。」と言っているように聞こえ、心が軽くなっていくのを感じたのを覚えている。
川の流れの様に
師の教えは心配事で頭が充満し重たい足を引きずりながら帰宅する途上、ふと夜空を見上げた時に経験する清涼感、解放感の感覚に似ている。しかし「そうはいうものの・・・」という問いがここで自ずと浮かぶ。。「確かにその教えは晴れやかな心にしてくれる。しかし仔細な事に心傷つき日々を送っている中で死の様な大事を含めた人生の根幹を揺すぶるような出来事に遭遇した時などどのような心持で対処すればよいというのだろうか?」師の答えは明快だ。「人為を捨て運命に身を任せよ。大自然の営みを見よ。一分の狂いもなく万物は春夏秋冬生成の変化を繰り返しているでわないか。自然にはそれ自体の法則がある。人力を超えた問題に際しては、運命のままに従え。」と。「しかし」と善良な市民は反問する。「我々は人生に希望、目標を持ちそれに向かう過程の中に
人生の意義、充実感を感じているのではないのか?」この問いに師は「一つの対象に心が奪われると他が見えなくなる。今この瞬間に名もなき路傍の雑草も同時間を呼吸しているのだ。一瞬一瞬
目の前のことに全エネルギーを傾注せよ。しかし結果、その意義を有限なる人間の頭脳で問うてはならない。無心で行え。」と。無心!師の教えの帰結はこの無心にあるといえる。計らいを捨てた万物の故郷。無心。この無心の境地にて人は初めていかなることが起ころうとも揺るぎない究極の大安心=セイフテイー・ネットを得る。2400年の時を超えてこの教えは僕の心に届いた。僕は師の「自然は我々に働き、楽しむ為に生を与え、休息の為に死を与える。」という生命体の循環を表した誕生ー青春ー盛ー衰ー生成の人生観を心の羅針盤に置いている。
これで今夜はグッスリ
最近絆の理念の下に困ったとき物心両面にわたり支えてくれる連帯感及び制度ができつあるのはとても喜ばしき潮流だと思うね。でもね、同時に土壇場においては心ひとつで耐えねばならないことも多々あるということも忘れてはならないと思う。そんなギリギリの状況の時最後に心を支えてくれるのは非力な人間ではなくて絶対的に信じる物があるかないかであることは、おふくろの臨終の際の顔の表情で確信したね。人間て弱いもんね。他の多くの国々では神への信仰がある。しかし今の日本人には神は受け入れ難いと思う。でも多くの日本人は心のどこかで人智を超えた何かがあると感じていると思うな。この点僕の師の自然の法則にのっとった教えは受け入れ易いのではないかと思う。師は人智を超えた存在についてキリスト教の様に体系的に論証はしていないけど、無意識下つまり無心の真実在の世界については語っている。そこに日本人が何となく信じている存在に通じている物があると思うな。無心、虚心、その心の在り方に、不眠、孤独の様な自己の意識と全面的に対峙しなければならない時の心の拠り所があると思う。さて、この教えと共に隣の人のイビキにも悩まされることもなく、5度目のトイレに行くこともなく今夜はグッスリ眠れそうだ。