2014年10月27日月曜日

 タゴール{インド哲学}&無心  -癌の不安からの解放ー

                         *zoom upしてお読み下さい。
「もしかしたら…癌かもしれない」

最寄りのクリニックの診察室の中。「この間の検査の結果ですが、再検査の必要が・・・」と医師。
「ということは、癌の可能性が更に高まった・・・」と心の中で絶対「そんなはずが」と打ち消しながら動揺する自分と、ここで平常心を保てなっかたら今までの精神的修業が何のためだったのか?と動揺を認めたくない僕のプライド。「とにかく、一週間後結果が出ますので、また来てください。」と事務的に答える医師。「まあ~、大丈夫でしょう。」との医師の優しい言葉を期待して
医師の口の動きを食い入るように凝視する自分。が、その儚い望みは消え、弁護士のいない裁判で、死刑の宣告を受けるような覚悟を強いられた気持ちになった自分。
そして、長~い長~い一週間が始まった。
とにかく、頭は冴えわたっている。台風一過の後の澄み切った空気のように、頭の中にへばりついていた塵、垢が一掃され物事の本質がよく見えるような気がする。人がとるに足らないことにこだわり、大騒ぎをしているのに驚く。生活はいつもの通りだ。しかし心の奥底に今までにも増して冷めた自分がいる。「もしかしたら…」の可能性に「もう、やることは十分やってきたし…」と運命を
平常心で受け入れる理性と、「でも、まだ・・・」と運命を拒否する生命体の本能がある。後者が
不安と怖れを生んでいる様な気がする。そんな心の状態で死を生命の終着点として、当たり前の如く喜んでその運命に服する道はないものか?とその可能性を、今自己の死を自分事として心細い気持ちで日々を過ごしている僕の同胞者たちと共に探っていきたいと思う。

あった!過去にも現在にも。死を歓び生を嘆く死生観が!

「この人生は見知らぬ土地を通過していく旅に過ぎない。人にとって最大の幸福は生まれてこなかったことであり、次に死ぬことである。そして親類の誕生はみんなで嘆き悲しみ、葬儀を心から喜んだ。」との衝撃的な一文は16世紀活躍したフランス人の宗教改革者ジャン・カルビンという人が書いた一文である。この生の価値を全面否定した死生観は深夜一人どこからともなく心のうちに湧き起ってくる心締め付けるような人生の空しさに、体内から血が引いていくような思いを経験したことのない者にとってただ不快な考え以外の何物でなく、むしろ反発を覚えるものかもしれない。が、現世で足元が揺らぎ始め、徐々に勝手知ったる周囲の世界が遠ざかりつつあると感じつつある者にとって、この一文は溺れる者の縄だ。そうした人の心の軸足は自己の運命にあらゆる抵抗を試みた後、いやいやながらであるが来世に目を向け始める。そして関心の対象が「来世はあるのか?」「自己の存在は何らの形で存続するのか?」といった問いに移っていく。
そうした問いに上記の一文は明快に答えている。「この世は来世への一過性に過ぎないと。人間は、「今度あれやろう、これやろう。」と将来に心を向けて生きている。そうした行動の時間がもう与えられていないと感じたら、こんな残酷なことがあろうか?来世の存在を信じること。それは将来の活動の場の可能性を与えられることだ。例えそれが来世であったとしても。そのかすかな希望の明かりで人は絶望に陥らずに生きていけるのだ。
ここに科学がいくら進歩した現代でも宗教を必要とする土壌があるのだと思う。
「南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏・・・・・」と全ての計らいを捨てて、万人の救済するという阿弥陀仏の本願を信じ無心に連呼する。何千回、何万回。そのうち名号を唱えているという意識すら無くなり、あんなに悶え苦しんでいた私という存在すら消えていく。その空になった心の状態こそ極楽浄土だと説くのが仏教の一派浄土真宗の教えだ。これも死地に追い込まれた者を救済するあり方の一つだ。そして上記の二つの救済の方法に共通しているのは、現世は一過性に過ぎなく、来世こそ真の世界であるという天上思想だ。おそらくそうした考えに反理性、非合理と反発する人も多々いるであろう。しかしそうした人々に次のように僕は反論する。

この世は全て嘘

「あなたは死地に追い込まれ、どこにも心預けることもできず、一瞬一瞬情けない気持ちで時を過ごした経験があるのか?」と。「人は非力だ。一瞬前まで自信満々に振舞っていた者の癌と宣告された時の慌てふためきようを君は知っているだろう。」とも。人は苦痛を伴う真実よりも心安らかにしてくれる嘘を好む。そもそもこの世は虚偽、虚飾、偽善、偽得で成り立っているといっても過言ではない。「原発反対。」と叫びながら電気消費量の多い消費文化の生活を続けるデモ参加者。「被害者の人々に元気をあげたい。」とインタビューに応じる善行をしている自分に酔いたい人気アイドルグループ。「「これで事故にあった息子に顔向けができます。」と涙ながら裁判で
勝ち取った多額の賠償金を平然と受け取る遺族。彼らは自己矛盾という認識すらなく、後ろめたささえ感じていない様子だ。自分に不都合な良心の声は退け、民のエゴイズムを人権という名で
虚飾する世論が彼らの背中を後押しする。
人の考えなんてどうにでもなりうるのだ。多くの者が人殺しを聖戦と言えばそれに人は拍手喝采するのだ。その究極な形が宗教だ。キリストは言う「私を信じなさい」と。絶対的確信を持った声で。その絶対的確信に人々は引き寄せられる。この救われたいという人々の願望は理性の次元を超え、大自然の迷い子の帰郷への本能ともいえる。「私は信じる、何故なら信じたいから」。この単純さの中にこそ救済の本質がある。この偉大なる単純さ。それを失ったところに僕たちの不幸がある。見よ!知の毒果を食った人間の死に至る病を。「この単純さに全て身を委ねよ!」と、
ある声が僕の耳元に囁く。その声は僕が気弱になっているとき一層強まる。が、知の毒果が無数の懐疑を生み出し、僕が単純になることを妨げる。この二つの相克の間でどっちにも就けない優柔不断の僕がいる。そんな時だ。今まで聞いたメロデイーとは性質を異にするメロデイーが僕の耳に流れ込んできたのは。それは葦笛の音色であった。その音色は西洋の洗練された音色とは
大きく異なり純朴な大地の香りを含んでいたように聞こえた。そこに何かがある。その音色の心源を辿っていこう。そこに知と単純さの狭間で息詰まった僕を解放してくれる何かが見つかるかもしれない。そして辿り辿って最後に行きついた先にガンジス川があった。又、その心源はインドが生み出した詩聖タゴールの詩からであることが分かった。

ガンジス川から流れてきた葦笛の音色

自己の死を身近に感じている者にとって、無制限なる時間が与えられているという錯覚の上に生きている楽天主義者達の慰めの言葉は空しく響く。そんな時存在の根源まで達したタゴールの言葉は僕たちの心の中に真直ぐ届く。彼の言葉は「人生とはいいものだ」の肯定を前提とした意図的論理の策動がない。彼はただ自分が信じられる真理に根差した絶対的心の拠り所を求
めた。彼の天賦の詩人の感性と強靭な精神力を武器で。彼のそうした狂おしく本当のものを求める姿勢は常識の世界に安住している人々が構築した人間の虚構の世界を打ち砕き、それが幻想であったことを突き付けた。そこにその幻想の上にはもう生きることが出来なくなり、新たな心の拠り所を求めてのた打ち回る僕たちの呻吟の声と共鳴する。彼は見た。踏み鳴らされた規範主義の中毒症状に侵され、その枠内だけしか生きていけない生命のみずみずしさを失った人々を。又、彼らの中にある思い上がり、欲深い無慈悲な貪欲さ、無力な者の卑怯さ、虐げられた者の恨みといった人間の心のうちに宿る煩悩のありのままの姿を。そして彼は暗黒の宇宙を頭上に、ヒマラヤを前にして深く瞑想し悟った。純白なる無垢なる謙虚な心。これが唯一の真理に到達する道であることを。彼は言う、「私たちが謙遜において偉大である時最も偉大というのに近い」と。「老いること、死ぬこと。この変化は全て真理だ。その変化の中に僕たちの足場がある。この変化に沿って生きること。それが最も自然な生き方であり、真の幸福へと通じる道がある。」とも。
しかし、タゴールがぽっかり空いた深淵の淵に立っている僕たちに希望を与えてくれるのはここからだ。彼は言う、「我々の浅はかな五感を一歩超えたところに常緑の泉がある。流転の中に永遠の変わらぬ生命の根源がある」と。彼は詩人の完成を通して真理を示した。我々の一瞬一瞬の行為が永遠に通じていることを。

無心こそが・・・・そしてあの診察室へ

タゴールは我々に示した。 この無常の世界に起こる森羅万象の奥に宿る不変なる実在を。タゴールの詩の一字一句を噛み締めること、その世界に浸ること。それは大海に放り出された漂流者がしがみ付くものに出会ったという安ど感にしばし包まれるに等しいこと。しかし、しかし・・・
これで本当に土壇場でも心乱れることなく自己の運命を受け入れられるのか?となると、絶対的確信は持てないというのが実際のところだ。それでは一体他に何が必要なのか?と僕は考える。体験!タゴールが言葉で言い表す前の心のうちに起こった体験、それが必要なのだ。ではいかにして?そして僕はタゴールの”五感を超えた常緑の泉・・・”の詩のくだりに注目する。このくだりは正しく禅の目指す最終境地「無心の境地」を別な言葉で言い表しているのに過ぎないのではないのか?ではそうだとしたら、その無心の境地への道は?僕たちは知っている。その境地に至るために過去の先人たちが人生の全てを犠牲にしてやっと辿り着いたことを。僕は狭い教義の解釈を取り除けば 全ての宗教の教祖、真の聖人・求道者が達した境地はこの無心にあったと解する。違いは祈り、瞑想、名号の連呼、座禅等のそこへの辿り着くまでの形態だけだ。彼らは己を捨てきった。そのとき彼らの心は純白になり、万物が自己という夾雑物がなくなり、ありのままの状態で心の鏡に映った。自己と万物が同化した瞬間だ。己がなくなる。ということは変幻自在の万物の変化と常時共にし、共にしているから、生という固定した状態もなければ、死という固定した状態もない。この無心の状態を次の一文が明確に表わしている。

「心こそは悟りの木。身体は鏡の台である。鏡は初めから空っぽだ。塵、埃が付きようもない。」

これが存在の実相だ。と、分かっていても僕たち凡夫はここまで極端に求道することは難しい。しかし彼らが残した足跡は、暗中模索だった僕達に死の恐怖の解放への道標のみならず、常に心の奥底で無常の変化に怯える虚構の世界から真の世界に生きる道を指示してくれる。そして人生の究極の目標をも。無心。理を超えたこの境地に僕達は希望を託せるのではないかと思う。

そして今日、癌の判定が下される日だ。
午前9:30am.待合室の中。「…さん、診察室にお入りください。」とのアナウンス。「とうとう来る時が来たか!」と心の中で呟けながら、あの医師の待つ診察室に入って行った。