2012年12月9日日曜日

クリスマスと禅

クリスマスの憂鬱
再び一年で最も憂鬱な時期がやって来た。街のそこかしこにクリスマスツリーの灯りが灯り、町全体がそこはかとなくきぜわの空気が漂い始める頃、僕の気持ちは日々増してゆく街の賑いと
は裏腹に重く空しくさえなる。ある人はこんな僕を変人呼ばわりする。 キリスト降誕を祝す一年で最も神聖で厳粛であるべきこの時期。何故人々はしばし立ち止まり、慌ただしい日々の中で
擦り減っていく自己の心を見つめ、内省的時を過ごそうとしないのか?一年に一度くらい日頃の
ノボセをさまし、無数の星に散りばまれた夜空に向かって深く息を吸い込み、永遠、無限という次元から人間の存在意義、真実の生き方を説いたキリストをはじめとした先人たちの教え、叡智に接し新たに自分の人生を捉え直してもよいのではないか?ちょとお堅いじゃない?と反発を唱える人もいることは十分承知。 そうした僕の思いと街全体を包むお祭りムードの落差が僕の気持ちを孤立へと追いやる。僕は絶対世界には僕の気持ちとシェアできる人がいると信じているが


孤独な魂同士の軌跡的出会い
そんな時人生そのものに真っ向に向かい合い、ある時はよろけ、挫折、絶望を繰り返し、ギリギリの地点で生を肯定的の受け入れた葛藤と苦悶に満ちた人生を生きた偉大なる高貴な魂に触れることは救いだ。というわけで、毎年この時期僕はタイムトンネルを通り精神的癒しの旅にでる。 僕は自己の人生を正当化するためにあらゆる詭弁を弄し尤もらしい理由の上に成り立った
妥協と安逸を目的とする世間的価値観に偽善的なものを感じ、そこには絶対的心の拠り所はない絶望的に感じて以来、幾人かの本物の人生の師に出会った。過去にも僕と同じ悩みを苦しみ、その悩みを血と涙で克服した人がいた!この発見は孤独にさいなむ僕の心を何と勇気ずけてくれたことか。この時空感を超えた孤独な魂と魂の出会い。それは砂漠でオアシス見つけるのに等しい。ここに本当に信頼できる人がいた。彼らの想像を絶する苦悶の末に見出した人生の方向性は前方に広がる暗闇の中で光の道しるべの様にさえ感じた。


出会った師が示した教えの中枢
その彼らの教えには共通するものがあった。それは要約すると、感情を許さず理知の光のみで冷徹に人生を見るならば、世は無常で我々はただ生まれ死んでいくのみだ。その理が行き着いた限界地点で安易な世間的価値観の誘惑に惑わされることなく、もがき苦しみ続けていると、結局自分の苦しみの根源は我という意識ということに気ずく。そこで一度我という意識を捨て去る。
すると何と心は軽くなり世の中は以前とは異なって心に映る。というのが彼らの教えの中枢であるが、そこにはすべて無我の考えが土台にあると僕は感じた。


多くの教えの中で何故禅を?
 そうした多くの教えの中で最終的には僕は禅に辿りついたわけだが何故禅であったかをここで若干語りたいと思う。その理由は一言で云うなら禅には我という基軸がないということである。他の教えは全て我という意識と自分を取り巻く対象物との関係性を問題にしている。しかし例えば視界が捉える目の前の猫から想像が捉える大宇宙ので彼方まで全ては中心点の自分という存在がなくなったら万物は存在し続けるのか?という疑問である。この問いが青春時代より心に引っ掛かり、あれ程までに聖フランチェスコの純粋性、無垢なる魂を愛しながら彼の教えを全面的に受け入れることができなかった理由である。しかし自分という核が消滅したなら、一体どのようにして自己と世界の関係性を築き、そこから無常という絶対真理を見定めながら真理に則った人生を歩み出す事が出来るのだろうか?そしてその道には最終的に平安な心が約束されているのだろうか?ここが僕が一番苦しんだところだ。この問いに唯一納得いく答えを示していたのが禅であったということだ。つまり無心、空、般若の教えであった。


無心の教えとは?
無心は絶対意識では捉えることはできない。それは絶対的自己否定の上に成り立っている。枯れ葉舞う秋風に吹かれ大自然に全てを委ねその情景の中に溶け込んでいる白髪の仙人。それが無心の象徴的イメージだ。無心ということは我と外界物の対立はない。つまりそれぞれがお互いに溶解し合い同化してる。我が動くと外界物も一緒に動く。一心同体だ。一瞬でも自己意識するとその関係性は崩れる。又我という中心がないから時の流れにも左右されず過去も現在も未来もその分断はない。ただ過去も未来も凝縮した今があるだけだ。僕は聖フランチェスコが神の声を聴いたときこの無心の境地に達していたと解している。が、その後彼の無心に理が介在し彼の内的経験をキリスト教的に解釈したところが禅と袂を分かれるところだ。もし聖フランチェスコが天国において我々の魂は救われるという意識すら捨て去ったとしたら、もっと共に戯れた小鳥たちの心に近ずいたかもしれない。つまり僕が他の教えではなく、禅に惹かれたかはキリスト教を始めとする他の教えは固定的で人為と理知の臭いがし、禅には流動的で土臭い自然の臭いがしたからだ。


悟り臭さを抜く修業
禅には聖胎長養といって、自分の悟りすら意識せずしてその悟りが血肉に流れるように全国行脚して悟り臭さを取り除く修業がある。禅僧の中には河原乞食に混じって過酷な修行をする者もいる。何がそこまで彼らを駆り立てるのか?それは死よりも怖い実存の深淵を垣間見てしまった者の、真の心の故郷を探し求めての血の滲む全てを投げ捨てての模索なのだ。その道は僕の前に果てしなく延々と広がる。いつの日のことだろうか?その故郷に帰還できるのは?その時僕はこのクリスマスの賑いを穏やかな気持ちで迎えることができるかもしれない。

2012年9月23日日曜日

自死とフランチェスコが示した絶対的幸福

生きるべきか死すべきか

耐えがたき絶望から命を絶つ者がいる。又その絶望を耐え、その経験を肥やしとして意義ある人生を送る者もいる。両者を隔てる物はほんの僅かだ。運命的人との出会い、個人的資質、精神的支えの有無がその相違を生む。人生を真剣に考えた者なら一度は自死の誘惑に駆られる経験があっても不思議ではない。そこまで行き壁にぶち当たらないと本当のものは見えてこないし、乾き切った喉に水が浸みていくような人生の真の喜びも悲しみも分らない。

小鳥に話しかける聖人

人生のブラックホールを通過した者達が、決まって感謝の気持ちで人生の同胞者の大先達として仰ぎ見る、あるタイプの人物像がある。自分たちが絶望のどん底で喘いでいた時、自分達が味わっている絶望の数倍もの血みどろの過酷の経験をした末の穏やかではあるが全てを受け入れた確固たる表情で勇気を与え、絶望状態から救出してくれた人々だ。そうした人々は何故か特有の共通の特徴を持っている。幼児の様に純粋無垢で飾りがなく構えた所もなく、一見単純そうで静けさと内面的強さを内包している。ある時小鳥と話しかける聖人の絵を見た。その聖人は12世紀に生きた聖フランチェスコという人であった。その後偶然にその聖人を描いた"Brother Sun and Sister Moon"という映画を見た。直感的に感じた。この人は本物であると。

変わらぬイタリアの精神風土

そしてこの聖人を育んだ精神風土はいかなるものであるのか?という問いが心の中に起こった。その問いに促され訪れたイタリアのウンブリア地方という所はあちらこちら500年前に起こったルネッサンス期と変わらず一日幾度となくあちらこちらで教会の鐘が鳴り響き、多少の近代化の影響は受けているものの当時と同じ文化的土壌の上に、当時と同じ建物の下で陽気に生活を楽しむ人々がいた。

聖地アッシジ

聖地アッシジはさすがに聖地を思わせる多数の巡礼者、大通りを行き来する聖職者の姿、数多くの教会があった。それにしても何がそんなに数多くの巡礼者たちを世界中から引き寄せるのであろうか?みんな心の中に何らかの痛みを抱えその痛みを癒されようとやって来たことは間違いない。

神の声

言い伝えによると、フランチェスコは何一つ不自由ない環境で生まれ育ち若かれし頃は放蕩生活に明け暮れた日々を送ったという。その後勇敢な戦士に憧れ戦地に赴いたが、瀕死の重傷を負い帰国したという。彼は戦場にて夥しい人の血の海を見た。そして帰国後しばし熱に浮かされ生死を彷徨った。熱に浮かされているとき彼の脳に去来したものはいかなるものであっただろうか?いわば彼は人生の甘味と苦みの両極を尋常の者が推し量ることができない程経験した。そんな人間が生に留まるとしたならいかなる道が可能であっただろうか?今回訪れたウンブリア地方の田園は果てしなく広がり、遠方に見える教会は靄に包まれていた。その遠方から鳴り響く教会の鐘の音を日々聞きながらウンブリアの草原を走り回ってフランチェスコは育ったのだろう。又街の中央に位置する彼が洗礼を受けたというサン・ルフイーノ大聖堂で時として敬虔に神父の話に耳を傾けたこともあったでろう。そうした風土、精神文化土壌の影響が無意識のうちに次第次第に彼の心の奥底に沈殿していった。生死の崖っぷち。そんな絶対絶命の状況でそうした眠っていた沈殿物が生の方へと押し上げるエネルギーとして働き、神の声として現れた。その声が彼を生に留めた。そんな解釈が生まれたのは早朝、鳥たちが清澄なる空気を震わせる空の下に広がるウンブリア地方の田園風景を眼下に、フランチェスコが神の声を聴いたといわれるサン・ダミアーナ修道院へと続く道を辿っていき、着いた修道院の前で奥のほうから流れてくる抑制されたこの世のものとは思えぬ信徒たちのミサの声を聴いた時であった。フランチェスコは絶望を克服し、確固たる足取りでその一歩を踏み出した。そのときの彼が経験した熱い思い、絶対的確信が人々をアッシジへと引き寄せる。

永遠の幸福

彼は44歳で死んだ。しかし彼の一生は誰よりも幸福だったといえる。彼には奪われ物がなかった。
命すら神の思召しとして喜んで差出したことだろう。彼の一瞬一瞬は永遠へと続く道であった。よって一般の人の最大の恐れ。無常、死の恐れからは無縁であった。徹底的自己否定から生まれた永遠の幸福。それは青春時代快楽の限りを味わい尽くし、戦場にては無数の悲惨極わりない人の死を見た彼だからこそ辿りついた幸福といえるのかもしれない。

巡礼を終えて

今日、老若問わず多くの人々が自ら命を絶つ。そのほとんどのケースは今迄心の拠り所としていたものを失った故のものだ。世は無常だ。その無常なものに全面的に心を預けることは余りに無防備とは言えないか?生死の崖っぷちで追い詰められたとき人は自分以外のことを考える余裕はない。そんな時全てを受け入れてくれる絶対的心の拠り所こそ生の方向へと力を与えてくれる唯一の源泉ではあるまいか?フランチェスコは全ての世俗の喜びを放棄することにより新たな人生の道を歩み始めた。彼が命を絶つことなく生に留まる選択をしたのはほんの紙一重のところだったといえる。人には様々な幸福感があってもよい。しかしフランチェスコが示した万物のすべてを等しく受け入れ友とする絶対時間の中に生きる生き方こそ何ものにも壊されることのない揺るぎない幸福といえるのではあるまいか?そんなことを感じ考えたアッシジへの巡礼の旅であった。

2012年8月14日火曜日

聖フランチェスコが示した 淋しさよ さようならの道

瞳の奥

人間の瞳の奥底をまじまじと覗き込む。すると、そこに必ずと言っていいほど闇夜の大海をどこへ
漂着するのか分からない難破船に乗っている人間の様な不安,恐れ、怯えの表情を見出す。自信満々な表情を浮かべた世俗の成功者でさえ、その彼らの自信を支えている頼りない薄ペらな根拠性を取り去るとついさっきまでの自信が嘘のように、同じような表情を浮かべる。その不安、恐れ、
怯えはこの大地に意味もなく投げ出され何処へ行くことすらわからず途方に暮れている迷える子羊
と共有するものだ。それはどこか物悲しく、郷愁を誘う。動物の目の表情に愛おしさを感じるのは、
その中に幾重にも重なりあった自我の層を脱ぎ去った後の大自然の落し子としての裸の自分を
見出すからだ。

聖フランチェスコ

今、ここにいかなる生き物も例外なく共有する、生きるが故の生物の定め、永遠の憂いを克服した真の人生の勝利者がいる。12世紀イタリア中部アッシジで生まれ育った聖フランチェスコだ。彼は
歩いた。確固たる足取りで。彼は笑った。清らかに心の底から。彼は歌った。自然の声を。飾り気ない子供の心で。彼は祈った。真心を込め絶対的信仰を胸に。その彼の絶対性に触れた揺るぎなき
心が全ての苦悩を麗しき愛の花に変え、人を引き付ける。彼に近ずくこと。それは救われること。
みんな知っている。彼は私心なく自分のすべてを与えることによって真の魂の喜びを感じたことを。
又彼は自分を無化することにより永遠の憂いから解放され、大自然の懐(神の世界)に包まれたことを。彼は到達した。揺るぎない絶対的心の平安を。小さな臆病な高慢な自我を捨て去ることによって。

アッシジへの巡礼

そんなフランチェスコに引き寄せられ2012年8月17日彼の魂を育んだアッシジに巡礼の旅に赴きます。トスカーナの夏の陽光を一杯浴び、アドリア海から吹き抜ける微風に軽やかに揺れる草原、南欧特有の突き抜けるライトブルーの空。そんな風土の下で時空を超えたフランチェスコの声
を聞くことができるならと思っております。次回のブログではフランチェスコの幸福についてアッシジ
の心の体験を踏まえ皆さんと一緒に考えていきたいと思ております。

2012年7月30日月曜日

淋しさよ!さようなら forever

「淋しくない?」 「以前程では」
11:pm。 夜は深く重い。今日もまた独り自室にて自己と向かい合う。この静寂に包まれた濃密な時。深々と永遠のベッドに身を委ねる。そんな日々にある友は問う。「淋しくないの?」僕は「以前ほどでは。淋しさ以上の苦痛を経験したから」と答える。淋しさの語感にはほろ苦い失恋に似た感傷の響きがある。そこには平安貴族の様な長い袖で涙拭う繊細でか細いひ弱な心がある。感傷と無常心とは違う。無常心は涙さえ干からびた少女の瞳の現実の直視がある。感傷的人生観には人生の波間に漂い小事傷つき翻弄され、人生の絶頂期にさえ死の影に心曇らす定めがある。一方
世の無常を直視した人生観には、一時の救いの見えない虚無感、あてどない途方感、胸締め付けられる寂寥感に胸引き裂かれる夜が途上待ち受けているものの、人生の暗部を全見てしまった妙な開き直りと根源的自己に立ち返り揺るぎない平安なる心へと歩みだす可能性を秘めている。今回は皆さんと人の一生において心の奥底から立ち上ってくる微かな無常心の呼び声を段階的に耳を澄まして聞きたいと思います。人生に負けない心を作るために。

最初の呼び声
はっきりとした肉体的記憶の欠如を年長者から聞いた話や、過去の写真を繋ぎ合せ構築した幼年時のおとぎの国のような世界に亀裂を起こすのは通常愛する人もしくは動物の死だ。僕の場合もそうだった。一緒に住んでいたおばあちゃんが死んだ。6歳の時だ。その時起こった感情は今考えてみると祖母の死に対する悲しみというより死そのものに対する生命体としての本能的恐れだったと思う。生きとし生きる者には必ず終わりが来る。僕もいつの日か!この非情な現実はそれまで何の屈託なく遊戯に興じていた子供の小さな心に人間社会の背後にお化けの世界に似た世界の実在を予感せしめ、小さな影を落とす。

思春期
僕が教えている13歳前後の生徒はよく死後の世界について口にする。僕もその年齢の頃生の空しさを漠然と感じ不安な日々を送っていた記憶がある。又その頃だったと思う。性に目覚めたのは。自己の有限性の自覚、そして自己の存在の複製へと導く生の目覚め。この一見無関係に見える二つの事件は自己の意思とは関係なく大自然の生成の一環としての働きで本能が自己の存在の消滅を予感し、その準備として性の目覚めがあると解釈できうるかもしれない。この時期特有の不安感、孤独感、物憂い感情は死すべき運命にある生物としての憂いなのかもしれない。

青春期
「分かって欲しい」 「認めて欲しい」 「心温めてほしい」 この理の目覚めと共に経験する絶望感、不安感を癒して欲しいと願う気持ちは切実なものがある。理は知ってしまった。暗黒の宇宙にぽっかり浮かんでいる地球は永久に存続しないということを。この動揺を鎮めようと生涯をかけた模索が始まる。理は哲学へ、精神は宗教へ、情念は快楽は、中庸は家庭生活へと。この時期の実存的問の真剣度が彼の人生の地盤強度を決定する。しかし多くが人生の持ち時間の余裕から、まどろみと感傷的人生観に陥るのが常である様に思う。

壮年期
自信満々に闊歩する壮年期の大人を見る。そんな彼らに問う「あなたのその自信の根拠は?それはこれまで築いた家庭、社会的地位、名声か?」と。再度問う「あなたは時として青春の心に戻って
自問することがあるのか? その自信の背後に無常の風が吹きずさみ、底なしの深淵が大きくぽっかりと口を開けていることを?」 彼はぞんざいに答える「そんな青臭い話をしている暇はない。
それにそれは先の話だ。」と。実は、彼は最近疲れやすくなったと感じ、人生の秋の予感を感じていた。が、欲望の充足を目的とする日常生活に護られ、人間に備わった楽観主義的傾向、不快なことには心理をも欺いても目を背けようとする人間の本能から、無常の声は彼の心には届かなかった。そんな彼をつい最近見かけた。今までの自信に満ちた面影は消え去り、不安な目が虚空を見つめていた。癌だという。先の話ではなかったのだ。

老年期
物心ついた時から、何か になろうと生きてきた。しかしその何かを作り上げている諸条件が一つ一つ剥げ落ちていく。白髪、知覚神経の低下などの肉体的老いの兆候はもとより、知的能力の減退等。今まで欲望の下に埋もれていた無常の声は全てが剥き出しになった不毛の荒野に鳴り響く。隠れよう。今まで築いた何か の影に、色褪せた人生遊戯の影に。しかしどこに隠れようと無常の声は心のうちから湧きあげる。友との打ち解けた談笑が途切れた一瞬の沈黙の中にも。全てが自分から離れていく。隠れる場所はない。しかし真の人生はここから始まる。

淋しさよ!永久にさようならへの道
無常の声は遠い太古から綿々と続く波動だ。その波動は人の心にそっと入り込み熱した頭に全ては仮の姿であると囁く。その声がいつ心に届くかは、個人の性向といつ内的深い経験をしたかによる。仮のすがたはいつか真の姿に向き合わねばならない。真の姿は色絶えた弧絶な風光の中に
ひっそりと佇む。そこには何事も受け入れた強靭な精神の強さと穏やかなる内なる微笑みがある。
この地点に達し人は初めて真の平安とあらゆるものに対する愛おしさを知る。次回はそうした内的経験をした我々の大先輩について語り合いと思います。

2012年7月3日火曜日

古池や 蛙飛こむ 水のをと  ZEN&HAIKU

微動だにしない古池の水の音
僕は長い間世俗を避け人里離れた山林の中で雲、清流、月、風を友としてひっそりと静謐なる生活を送っていた。山林での生活は単調ではあったが、四季折々が繰り広げる大自然の変化は優雅絢爛で過酷なる生活を充分埋め合わすものがあった。秋の長い夜には、時として山林の胸圧する静けさ、又暗闇の深さの締め付けられるような寂寥感を感じることはあったが、そんな時には外に出てふと見上げた上空に幾羽の白い鳥が月光に照らされながら飛び去り行く姿を見ると、大自然と自己が一体化する様な感を受け深く心満たされるのを感じたものだ。僕の心は静寂に支配され、主体と外界が調和よく溶け合い大自然の懐で時を刻んでいたといえる。

unmovable surface of old pond
I had been spending a quiet life with friends such as cloud,moon ,wind,clean moutain stream in the forest far away from human society to avoid the worldly life for a long time.Life there was simple
but change of nature which four seasons presented me  was glorious and rewarding enough to make
up for the severe life.On long autumn nights I sometimes felt oppressed by an unbearable quietness
of the forest and the depth of darkness,but at such times I went out of the house, and when I happened
to see the moon lit white birds passing away above me , I felt spiritually satisfied with a feeling of
myself and all surrounding melting into one.  My mind was basically governed by absolute quietness.
In a word my subject and external world were harmoniously in a state of oneness.

静寂を打ち破る水の音
そんなある日近くの街へ出かけた行ったとき、一人のうら若き女性に出会った。彼女の清楚な口元、その純な眼差し、そして長い髪に漂うジャスミンの様のその香り。その純な眼差しが僕を見て
微かにほほ笑んだように見えた。禁欲的な生活を送っている孤独者にとってその微笑はいかなる意味を持っていたことか!それ以来僕の透明だった僕の心の色が恋の色に染まった。脳細胞の動きは全てその女性を軸として回転し始めた。瞑想の真っ只中に彼女の白い歯が光った。まもなく
「彼女と一緒にいたい。」という思いへと発展していき、満たされぬ思いと山林生活の静かな喜びの
狭間で夜な夜な深く苦しんだ。かつて一向に向上しない自己の精神的境地に悩み、深く心奪われたことはあったが、暫くすると心の水面は静寂に戻り、あるべきところに戻るのが常であったのだが
・・・・。「煩悩に引き裂かれた世俗の苦しみ」と理は胸深く呟いた。

the sound of  water breaking quietness
One of such days when I went to a nearby town , I happened to see a beautiful girl .Oh, how inoccent
and fresh-looking her mouth annd her glance appeared to be! Even Jasmin- like fragrance seemed  to be drifting around her long hair. When she turned her eyes towards me ,her eyes seemed to  smile at me. What did the smile mean to a lonely man leading an ascetic life for a long time? Since then the
transparent color of my mind was dyed into the color of romance. Every cell of my brain started to
spin aroud the axis of the woman.In the middle of meditation her white teeth shore in my mind.
Not long before my longing for her was developed as much as "I want to be with her" .The deep gulf
between my unsatisfied wish and quiet happiness in the forest tore my heart at nights.  Once I had
experienced a similar suffering ,which was caused by the consciousness of never being able to
raise my spirituality.But usually it didn't take much time for my mind to be settled into original state
of quietness where it should be. My reason deep inside my mind said in a whispering voice,"It is no
more than a worldly pain caused by lust."

何事もなかったのように
そんな日々が続く中、思い余って欲情に負け彼女を一目見ようと再び街へと出かけて行った。以前彼女を見た地点に差し掛かった時、遠方に彼女と思しきご婦人が依然と同様に優雅に歩いていくのが見えた。よく目を凝らしてみると、やはり彼女であった。しかし今度は一人ではなく、容姿端麗
な男性と一緒であった。彼女の彼の腕に巻きついた手は僕の目には余りに残酷な光景であった。
「全ては心が作り出した実在しない虚妄の世界だ。万物のすべてを映し出す私という無色透明な
鏡(古池)に外界の対象物(美しき女性)が映し出され、暫しそこに留まり、再び静寂の中に飲み込まれ本来のあるべき所に戻ったにすぎないのだ。」と理は僕の絶望に言い聞かせた。そんな主体と
対象物の興亡を我々は人生と称しているのかもしれない。そもそも存在とは私という主体と対象物
という客体により初めて成り立つのであり、どちらが欠けても存在しえないということかもしれない。

as if nothing  had happened
Leading such days,defeated by unconrollable urge, I went to the town with the hope of seeing her again . Getting close to the spot where I had seen her before, I saw a woman, who looked like her,
walking gracefully just like before. Trying to have a good look at the woman ,I found that it was her.
But this time she was not alone. She was with  a nice-looking man! The sight of her  arm entangling
his arm was more  than cruel to my eyes. My wounded mind said in agony,"Everything is  ,after  all,
no existing world created by mind. External objects( a beatiful woman )  is reflected on my transparent mirror ( old pond ) ,which is  cause of existence, stay there for a while and swallowed into ultimate homeland where everything comes from. We may call such a rise and disappearnce between
subject and object so-called life. In the first place exisntace comes into being only the basis of the
presence of suject and object. I f it were not for either of them , nothing could be appear.

ドストエフスキーの悲痛な叫び
「神が存在しなければ全てが許される。」と彼は言った。その言葉は神という確固たる地盤を失いこの大宇宙の中で実存の不安に喘ぐ孤独の中から生まれてきたものだ。しかし彼のその悲痛な叫びも禅的に解釈するなら主体と客体の分離によって生まれてきたもので、それらが同一化されるなら存在しなかった代物かもしれない。ここに他宗教とは異なった禅の独自性があるといえるかも知れない。以上が僕の禅に関する理解です。次回のブログでは禅の出発点である無常心について皆さんとじっくりと話あいたいと思います。

grievous cry by Dosoevsky
"Everything could be allowed without God." said he.  I should think that the words was born in absolute lonliness over  existential anxiety in this vast universe after he lost the unshakable spritual ground of God. But you may be able to say that his cry was born only  by separation between his
subject and objects according to zen. If his subject and objects had been in the state of oneness, his
cry may not have occured. Here is a uniqueness of zen different from other religions . In my next
blog I'd like to talk about the very starting point of zen, a feeling of transiency, with you.




2012年6月17日日曜日

深海の静寂を求めた末に

                                                               after seeking the tranquily of the depths of the ocean              

why?
           他の宗教の死後の世界を聞いたとき感じる「本当?」
     
    という疑念は起こらず、現世と来世が合わさったありのまま
    
    の姿<空>の世界観を違和感なく受け入れることができた
    故。次のブログで詳細について語りたいと思います。          
    
                             Unlike the time when I feel a strong doubt of "Really?" after hearing of  the
                              conception of life after death in other religions ,I could accept the view of
                              existence " as it is " comprehending the present and the other world.
                                     For further talk, I' d  ike to continue it in my next blog.

2012年6月12日火曜日

仙人から学ぶ究極の心のセーフテイーネット

今日も眠れぬ夜の友
今日も寝つきが悪い。床に入ってからこれで4度目のトイレだ。明日早く起きねばならないと思うと
心は余計焦りを増す。1~10まで繰り返し数えてみる。ダメだ。次は心理学を利用し「眠ろうとするから眠れないのだ。逆に起きていようと思うと眠くなるものだ。」と試してみるが一向に効果がない。
こんな時隣でイビキをかいて深い眠りに入っている人がいると
その人にこのイライラをぶつけてやりたい気持ちがムラムラと湧いてくる。普段暇つぶし
に大きく依存している携帯電話が全く使えないただ自己の意識と対峙しなければならない状況。何もできずにただ床に横になっていると、尚更脳だけが活発化していき、あらぬ不安が次から次から浮かんでは消えていく。人間関係、金銭問題、健康不安・・・・そして全てが出尽くしたところで「今後どうなってしまうだろう?」という不安の感情だけが心にこびり付く。そのうち外は徐々に白みがかってくる。「あー!今日も眠れなっかた。」という経験をしたことはないかな?
世間では「不眠症対策」「悩みをさらば」の様なhow to 物の本が洪水のごとく書店の店頭を占有しているが、どれをとっても人間の心の不合理性、反理性的側面の地点まで降り立ち、不眠、悩みが生起する根源まで包括した本は皆無に近く、現実のギリギリの状況で生きた心の支えになるか極めて疑わしい。今日は不眠、受験、就活、また一人病院の廊下で癌の有無の宣告を待っているような、時には緊張のあまり頭が真っ白のなるような状況でいかに心を軽く持てるかという方法を論理的、哲学的の僕に教えてくれた心の恩師を紹介したいと思います。
僕の恩人は仙人
僕の師は2400年程前に生きた荘子という名の中国人の隠者。空想豊のな人で、両翼合わせて4000㎞にも及ぶ架空の大鳥を考えだし、その鳥を天高く40000㎞上空まで飛ばしその地点から我々人間の存在意義を真剣に考えた現実離れした発想の持ち主。その反面生死の様な人智を超えた問題には神仏を持ち出すことなく、その存在を否定も肯定もすることなく、最後まで理性と壮大な想像を持って考え抜いた現実感をも併せ持つところに現代人にも受け入れられる魅力がある。師は不眠、苦悩の原因の根源は我々の物の認識にあるという。我々誰でもが欲する美、富、生は相対的な物であり対極の醜、貧、死の存在により初めて成立するというのが師の論理だ。師は絶世の美女さえも鳥にはただ危害を加える存在にしか見えず、その価値は絶対的なものではなく我々が欲する全ての対象は人間的色眼鏡をかけた所産に過ぎないとも言う。師はこうも言い切る。「天空から地上の万物を見ると全ては差別はなく同じだ。」つまり師の語る世界観では勝ち組も負け組もないということである。師は続ける「美醜、貧富、生死、秀と愚、名誉と汚辱、を全て併せ持ったのが人間の色眼鏡取り去った後の真実の世界であり、そこではすべての対立概念を超えたありのままの姿が厳かに光り輝いている」と。なんと説得力のある教えではないか!その言葉は一時取るに足らないことで鬱屈した日々を送っていた僕には、「我々の不眠、苦悩を生んでいるのは、人生の片側のみに全面的価値を置いた狭い人生観だ。そんなちっぽけな意識を捨て去り、真実の世界に心を開けさえすればよいのだ。」と言っているように聞こえ、心が軽くなっていくのを感じたのを覚えている。
川の流れの様に
師の教えは心配事で頭が充満し重たい足を引きずりながら帰宅する途上、ふと夜空を見上げた時に経験する清涼感、解放感の感覚に似ている。しかし「そうはいうものの・・・」という問いがここで自ずと浮かぶ。。「確かにその教えは晴れやかな心にしてくれる。しかし仔細な事に心傷つき日々を送っている中で死の様な大事を含めた人生の根幹を揺すぶるような出来事に遭遇した時などどのような心持で対処すればよいというのだろうか?」師の答えは明快だ。「人為を捨て運命に身を任せよ。大自然の営みを見よ。一分の狂いもなく万物は春夏秋冬生成の変化を繰り返しているでわないか。自然にはそれ自体の法則がある。人力を超えた問題に際しては、運命のままに従え。」と。「しかし」と善良な市民は反問する。「我々は人生に希望、目標を持ちそれに向かう過程の中に
人生の意義、充実感を感じているのではないのか?」この問いに師は「一つの対象に心が奪われると他が見えなくなる。今この瞬間に名もなき路傍の雑草も同時間を呼吸しているのだ。一瞬一瞬
目の前のことに全エネルギーを傾注せよ。しかし結果、その意義を有限なる人間の頭脳で問うてはならない。無心で行え。」と。無心!師の教えの帰結はこの無心にあるといえる。計らいを捨てた万物の故郷。無心。この無心の境地にて人は初めていかなることが起ころうとも揺るぎない究極の大安心=セイフテイー・ネットを得る。2400年の時を超えてこの教えは僕の心に届いた。僕は師の「自然は我々に働き、楽しむ為に生を与え、休息の為に死を与える。」という生命体の循環を表した誕生ー青春ー盛ー衰ー生成の人生観を心の羅針盤に置いている。
これで今夜はグッスリ
最近絆の理念の下に困ったとき物心両面にわたり支えてくれる連帯感及び制度ができつあるのはとても喜ばしき潮流だと思うね。でもね、同時に土壇場においては心ひとつで耐えねばならないことも多々あるということも忘れてはならないと思う。そんなギリギリの状況の時最後に心を支えてくれるのは非力な人間ではなくて絶対的に信じる物があるかないかであることは、おふくろの臨終の際の顔の表情で確信したね。人間て弱いもんね。他の多くの国々では神への信仰がある。しかし今の日本人には神は受け入れ難いと思う。でも多くの日本人は心のどこかで人智を超えた何かがあると感じていると思うな。この点僕の師の自然の法則にのっとった教えは受け入れ易いのではないかと思う。師は人智を超えた存在についてキリスト教の様に体系的に論証はしていないけど、無意識下つまり無心の真実在の世界については語っている。そこに日本人が何となく信じている存在に通じている物があると思うな。無心、虚心、その心の在り方に、不眠、孤独の様な自己の意識と全面的に対峙しなければならない時の心の拠り所があると思う。さて、この教えと共に隣の人のイビキにも悩まされることもなく、5度目のトイレに行くこともなく今夜はグッスリ眠れそうだ。
 

2012年5月21日月曜日

まどろみの生活からサムライの道へ ・・三島由紀夫の場合

まどろみの生活
「今日は気だるい。一日家でぶらぶらして過ごそう。」の思いと共にベッドから起きだし、午後は家でDVDを見たり、近隣の買い物に出かける。又ある時は「今日は久しぶりの晴れだ。よし、遠出でもしてみようか。」と近場の観光地へと足を延ばす。といった些事の繰り返しが日常生活と言えるだろう。そうした生活の中に喜怒哀楽の起伏があり、時として平穏なる生活を揺るがす暴風雨に襲われることはあるが、時の経過とともにその爪痕も癒え、まどろみの生活が再開する。ほとんどの人々はそうした単調なる生活に幾分退屈を感じているものの、同じ境遇にいる者同士でその満たされぬ思いを共有したり、つかぬ間の非日常的空間の体験といった人生のスパイスで概ね自分の人生を受け入れている。しかし人の中にはそうした感情の振幅の狭い生活に飽き足らぬ物を感じ、そうした生活がしばし続くと心のうちに絶望的無力感が頭をもたげ心苛み生死のギリギリの地点まで追い込みたくなる者もいる。。
「今生きている実感がほしい。」と彼らは一様に心の中で叫ぶ。程度の差こそあれ、我々みんなのうちに潜むそうした生命体として全神経を震わすような熱い時を過ごしたいという欲求を、いかにして肯定的に消化する道を見出し、生涯に渡って炎の様な人生を全うした、ある面では平凡な生活に耐えらなかった不幸な種族の代表者について今日は語り合いたいと思う。
不幸な種族
彼らの不幸は、ほどほど、そこそこ、と言った曖昧で中途半端なことを受け入れることのできない資質にある。彼らは矛盾、不合理、虚偽等に満ち満ちた世間の常識、因習、習俗に反抗期の子供の様に「何故?」「何故?」と鋭敏な妥協を許さぬ理性のメスで切り刻み、自分の論理で納得しようと再構築を試みる。彼らの絶対的に信じられるものをこの手で掴みたいという欲求は、自分の生死に関わる故切実でl直線的だ。宗教、哲学、文学、家庭の中に、又は仕事を通して自分の実存の確固たる地盤を求め探索に探索を重ねる。 しかし彼らがそこに見出すのは相対的私見、嘘っぽい楽観主義的人生観、心の不安、苦痛を軽減させることを目的とした人間の願望のみで失望の連続だ。その絶望感を回避しようと時として憧れの異性、偶像化されたアイドルを崇拝し空想の世界にしばし逃げ込む。しかしその崇拝の対象を溺愛することはなく、いつも醒めている自分がいる。ゆえに彼らは色恋には精通している。彼らの心の奥底には深い無常観と厭世観が横たわっている。それは彼らの飽くことを知らない精神的探索の結果、人間存在の秘密のベールを覗き込んでしまった故かもしれない。その心のうちに垂れ込めたニヒリズムの霧を日本刀で一刀両断に切り裂き、生死のギリギリの戦いの末、生きる方向に舵は切り、情熱と生命の賛歌の行動哲学を打ち立てた者がここにいる。三島由紀夫だ。
高貴なる野蛮人
彼は戦後、知識人を中心として世の風潮が大きく左翼思想になびいていく中で孤独を感じていた。
自分の屈辱より名誉ある死を望む誇り高き騎士道的精神、異常のまでの耽美的美意識、戦国武将の如く一人日本刀ひとつで敵陣に乗り込んでいくヒロイズム的性格。そうした単独者的性向は「
みんなで一緒に手を取り合って」的思想には相容れるはずがなっかた。又理を捨て神の前で額ずく宗教の世界に入っていくには彼の離群生の性格が邪魔をしていた。それでは自分特有の個性を
受け入れ自分のロマンチズムを満たしてくれるものは何処に?その問いに答えてくれたのが武士道であった。彼は理知への偏重は干からびた冷笑的人間を作り、ともすればニヒリズムの深淵に
陥ることを知っていた。一撃の下に命を葬ってしまうまばゆい怪しげな光。死といつも隣り合わせの意識、そこに自己の怠惰さを払しょくし生命のエネルギーを昇華させる源泉を見出した。又、自己のロマンチズムを満たしてくれる物をも。剣道は礼をした後、相手をぶっただく。ただそれだけである。そこには天井思想も形而上学もない。ただ峻厳な規律、道徳、様式美があるのみだ。神も信せず、緑の芝生に赤い屋根のマイホームの生活にも自分の心の拠り所を見出せなっかた人間。その人間は死という危機の意識によって救われ、そこを土台にして彼の芸術家
としての美意識、創造性をもってして生きる行動哲学を樹立した。しかしそこには常人が近ずき難い純粋すぎる精神性と死の匂いがする。彼の哲学は現代人が文明の進化と共に失った野生への郷愁と、精神的貴族を愛する性向を併せ持った高貴なる野蛮人の哲学と言えるかもしれない。
.What do you think?
確かに彼は才能に恵まれ、極端な形で自分の生きる道を見出したとは思うけど僕達は彼の生き方から多くのことを学べると思うな。まず彼は自分がいかに自堕落になりうるかをよく知っていた事。そして自分が自分の人生を送るためには自分を突き放す程の自己に対する客観的知識を持ち、その土台の上に他人の借り物ではない自分自身の人生観を組み立てた事。そして自分を信じ、その高い目標に向かって妥協せず命を賭して日々精進を重ねた事。ちょっとマッチョな肉体を作り上げたのは、精神と肉体が相互作用することを知りぬいた故だと思う。もちろんそこには彼の古代ギリシャの世界への憧れも多分に影響していたとは思うけど。結局のところその努力を支えたのは小泉元首相の場合もそうだったけど、そうしなければ自己破壊しかねないという危機的悲壮感だったと思う。寸前のところで兵役を待逃れた「一度死んだ命」という意識も手伝っているとも思うけど。彼は死の意識を持って人生のエネルギーに転嫁させた。それが僕はひ弱な文学青年からサムライへと変貌させた一番の要因だったと思う。やっぱりいつの時代でも、自分の納得する人生を送ろうと思たら、欲望、情念、生死の様な人間の根源的本能のようなものを肯定的エネルギーに転嫁して行く以外に術はないのではないかと思う。これが僕が三島由紀夫から学んだ最大のことです。
あなたの場合は?

絶版古書進呈: 今40年ほど前に書かれた三島氏のエッセイ「若き侍のために」を所有しています。ご希望の方はその旨このブログを通してお申し出ください。

2012年4月24日火曜日

人は何かに酔わずして発狂せずに人生を送れるか?

自分って何?
「今幸福?」の問いに一瞬ためらい「まあ、まあ」と答えたものの、その直後心のうちで「自分は本当に幸せ?」と自問した経験はないかな?我々が自己の外側の対象物と接する時全面的に依存している「私」と称する主体。その主体は実は自分の幸福という感情さえも、しっかりと掴むことのできない程実体無き物という意識に愕然とし、「自分の存在がなんなのか分からずに震えている・・・」と絶叫する尾崎豊の気持を共有したことはないかな?今日は深夜一人街路に響く寂寥なる靴音に胸締め付けられる経験をしたことのあるあなたと、先人たちがいかにこの癒されることのない実存の苦しみもがき悲痛の叫びをあげ、ある者は逃避という方法で、ある者は明晰の思考で立ち向かい生きようとしたかという心の軌跡について一緒に考えていきたいと思う。
神が存在しないなら全てが許される
ニーチェは言った「神が存在しないなら全てが許される。」ヨーロッパの近代史は彼のこの言葉と共
幕を開けた。その後遺症は今も直、我々の時代に人々の思考の源に影響を及ぼしている。「何故
人を殺してはいけないのか?」と今日の若者は問う?その問いの源はニーチェの言葉の中にある。それまで人間行動の全ての価値基準の根源は欧米社会ではキリスト教にあった。当時彼らは日々の取るに足らない些細な行為、その一つ一つ永遠の価値の上に照らされていると考えていた。善行を積むと神の恩寵が確約される。しかしそんな絶対的価値観が崩れ、彼らの現世での行為と永遠との関係が断ち切れた。そして全ての比重は現世に置かれた。そのような状況で誰が喜
捨等という無償の行為をするだろうか?これは日本の様な宗教色の薄い国で幾分異なるが、やはり日本でさえ神、仏が習俗化したといえ、恐れ、祟りという形で人々の心、考えに過去においては無意識なる影響を及ぼしていたことは否定できない。それ程まで人々の心に絶大な影響を及ぼしていた神の否定、絶対的な心の拠り所、いつどんな時でも赤子のように暖かく心に包んでくれた母性愛。その喪失は今日の我々の想像を絶するものがある。
詩人が見出した平安
フランスの詩人ランボーは「酔え、それが唯一無二の問題だ」「この世の外ならどこえでも」「愛し合う二人の死」といった幾分退廃的詩をもって一時の陶酔の中に忘却という方法で癒しを求めた。又彼は南国の未開人に思いを馳せ干からびた精気の失せた心を単純さの中に逃れようとした。が、彼の月光の青白い光に慣れ親しんだ病んだ心は、我々現代人が大自然の下では無力な様に太陽の光を全身に受けるには脆弱になりすぎていた。そんな彼の寄る辺なき迷える子羊の心が一時にせよ平安を見出したのは視覚、音、触、香、味、といった五感の調和による詩人としての想像力の中にのみあった。彼は救済を一時の陶酔、忘却の中に求めた。彼の詩人としての感性は知っていた。酔わずには狂人になるということを。今我々は形を変え、ネット社会に代表されるように忙しくすることによって自己を直面することを忌避している。そこには自己の内側を覗き込むことによって自己が瓦解するのを恐れる自己防衛本能が働く。

太陽の真実
今度は「宇宙には果てはあるのか?」「ビッグ・バーンの前に時間は存在したのか?」こうした形而上学的問いに真摯に向かい合い、我々の世界の根拠性のなさ、不条理性を暴き出し無感動に全てを飲み干しては吐き出していく生成の変化に対し、妥協を知らない冷徹なる理性を持って向き合いそのギリギリの拮抗関係によって誇高き人間の生を歩みだすことを決意した勇者について語らいたいと思う。その勇者とはアルジェリア出身の作家カミユのことである。彼は処女作「異邦人」の中で主人公に「何故あなたはその人のこめかみに何発もの弾丸を撃ち込んだのか」の問いに「それは太陽のせいだ。」と言わせた。「神の死によって善悪の価値基準が失ってしまったら人間のモラル観など何の意味があろう。全ての行為は哲学という名の下で正当化されるものだ。自分が今本当に信じられ、確かなものはジリジリと照りつけている太陽の暑さ以外に何があろう。」と言うのが彼の言い分だ。他言するなら我々が慣習的に意義あるもの、尊重すべきもの、我々の行動を規定している物、それを冷徹な純粋理性の下に晒されたなら全てのものは根拠性を失うということだ。我々は遠い過去の文明が今ほとんど形跡すらとどめずに意味もなく風雨にのきざらしにされて放置されていることを知っている。同じ運命を持つ我々人間存在に一体どこに座標軸を求めたらよいというのだろうか?自分自身に対し本当に誠実でありたいとするならば、精神的苦痛を軽減してくれる数多の誘惑を断ち切り、自分の五感を通じて認識できる確かな事、自分の理性が嘘偽り抜きに信じられる事にのっとり生きるべきではないか?これがカミユの主張だ。彼は酔うことを拒否した。彼の人間存在の不条理さを受け入れての誇り高き生き方は称賛に値すると思う。
快楽主義者エピキュロスの帰結
しかし、しかしと僕はここで問う?一刹那を生きる卑小なる人間が暗黒なる大宇宙を前にして一人トボトボと生きていける程強靭なる精神を持ち合わせているのだろうか?ぼくには率直に言って自信がない。かといって逃げられないことはわっかている。一度知ってしまった者の運命だ。この血を引くような孤独なる葛藤、煩悶。その中で僕が見出した活路を紹介させと貰うなら、前述の二人が推し進めた精神的探究の屋台骨である理性、論理、合理主義的思考を捨て去るということであった。このことに関しては僕の飼い猫のキッコから多くのことを学んだと思う。猫の日常生活の行動を
規制しているのは一貫性、秩序、法則性とは全く無縁だ。彼らにはむしろ有限なる人間の脳の産物から解放された混沌、無秩序、野生の論理といった大自然の摂理のようなものが働いているように思える。自我という鎧を脱ぎ捨て大自然の懐に身を預ける。換言するなら人為から無為への移行。すると心の重荷がすーと軽くなった気がしたのを覚えている。ここであなたに尋ねたい。「自分の幸福って何?」という問いを。前述の二人は終局のところ幸福を求めていたのだと思う。この我々人生最大の関心事「幸福とは何か?」の問いに古代ギリシャの哲学者エピキュロスの帰結をみなさんと一緒に考えることにより今回の語らいを閉じたいと思う。
「善とは快楽であるが、真の快楽とは放埓の欲望から解放された平静な心にある。」


2012年4月14日土曜日

人は死ぬのになぜ笑っていらるのだろうか?

人は死ぬのに何故笑っていられるのだろうか? 
生命体の終着点は例外なく死だ。なのに人は何故あのように笑っていられるのだろうか?と、物心ついた時あなたは思ったことはないだろうか?又ある夏の夜だだ広い田舎畑の真ん中で、ふっと夜空を見上げた時、その漆黒の宇宙に飲み干されるような恐怖心を覚え、身体中戦慄が走る感覚を経験したことはないだろうか?又いつもの様に仕事場から帰宅し、自宅で一人いる時理由もなく取り留めない不安が心のうちに広がり、何気なく送っていた日々の生活が急に色褪せ、順調に回転していた歯車が潤滑油が切れ軋んでいくように感じたことはないだろうか?又長年一緒にいる恋人のふとした表情、言葉の抑揚の中、愛の交歓をした後の相手のいつもの自分の髪を撫でる仕草の中に、何か乾いた倦怠に似た感情を覚えたことはないだろうか?
又子育てを終え、うなだれた青春人生の秋を感じかつて生き生きと闊歩していた自分を取り巻く舞台装置が急によそよそしく自分を離れて存在し始めた感覚を経験したことはないだろうか?又晩秋の夜、色々なことが頭に浮かんできて眠れずベッドに横たわっている時、時計の針の音が気になり想像が想像を膨らませ「太陽系が銀河系を丸一周した二億年後我々はどうなっているのだろうか?」から始まり時空間の無限性という哲学的ブラック・ホールの問いに入り込み宇宙空間に投げ出され、何処にしがみ付く所もなく深淵に突き落とされ、救いを求めて絶叫を繰り返すもののいくら叫ぼうと声が出ないというような経験をしたことはないだろうか?
  そうした経験のある者はすべて私の友だ。真に自己の人生を歩んだ者は時代を問わずそこが人生の出発の原点となっている。仏教では最終到達点の大安心を出発点として無常心を挙げている。いわばそうした内的経験は大自然からあずかり知れぬこの世に放り出され大海の中の泡粒の様な自己の存在の意義を問う人生一大事の問題といえよう。小さな子供の素朴の問いの中に賢
者の知恵の種子が宿っている。多くの者は「何故生きるのか?」といった根本的問の前に生を歩みだす。飢餓状態の様な下では生命維持の本能が先立つが、食に事欠くことのないような現在の日本社会ではこの問題が余りにないがしろにされている嫌いがある。whyの前にhowの人生観が老若問わずして個々の人々の多種多様の問題の根っこにあるように思えるのだが?。この問いに真摯に向かい合い、時には喘ぎ、慟哭し、胸引き裂かる孤独感に苛まれる所に時空感を超えた精神的勇者との出会いがあり、人生のほんの小さな変化、出来事にも深い味わいを感じる含蓄ある人生が待っていると僕は思う。
次回では「人は何かに酔わずして人生を送ることは可能か?」とのタイトルの下に皆さんと話し合いたいと思います。



   

2012年3月24日土曜日