2012年7月30日月曜日

淋しさよ!さようなら forever

「淋しくない?」 「以前程では」
11:pm。 夜は深く重い。今日もまた独り自室にて自己と向かい合う。この静寂に包まれた濃密な時。深々と永遠のベッドに身を委ねる。そんな日々にある友は問う。「淋しくないの?」僕は「以前ほどでは。淋しさ以上の苦痛を経験したから」と答える。淋しさの語感にはほろ苦い失恋に似た感傷の響きがある。そこには平安貴族の様な長い袖で涙拭う繊細でか細いひ弱な心がある。感傷と無常心とは違う。無常心は涙さえ干からびた少女の瞳の現実の直視がある。感傷的人生観には人生の波間に漂い小事傷つき翻弄され、人生の絶頂期にさえ死の影に心曇らす定めがある。一方
世の無常を直視した人生観には、一時の救いの見えない虚無感、あてどない途方感、胸締め付けられる寂寥感に胸引き裂かれる夜が途上待ち受けているものの、人生の暗部を全見てしまった妙な開き直りと根源的自己に立ち返り揺るぎない平安なる心へと歩みだす可能性を秘めている。今回は皆さんと人の一生において心の奥底から立ち上ってくる微かな無常心の呼び声を段階的に耳を澄まして聞きたいと思います。人生に負けない心を作るために。

最初の呼び声
はっきりとした肉体的記憶の欠如を年長者から聞いた話や、過去の写真を繋ぎ合せ構築した幼年時のおとぎの国のような世界に亀裂を起こすのは通常愛する人もしくは動物の死だ。僕の場合もそうだった。一緒に住んでいたおばあちゃんが死んだ。6歳の時だ。その時起こった感情は今考えてみると祖母の死に対する悲しみというより死そのものに対する生命体としての本能的恐れだったと思う。生きとし生きる者には必ず終わりが来る。僕もいつの日か!この非情な現実はそれまで何の屈託なく遊戯に興じていた子供の小さな心に人間社会の背後にお化けの世界に似た世界の実在を予感せしめ、小さな影を落とす。

思春期
僕が教えている13歳前後の生徒はよく死後の世界について口にする。僕もその年齢の頃生の空しさを漠然と感じ不安な日々を送っていた記憶がある。又その頃だったと思う。性に目覚めたのは。自己の有限性の自覚、そして自己の存在の複製へと導く生の目覚め。この一見無関係に見える二つの事件は自己の意思とは関係なく大自然の生成の一環としての働きで本能が自己の存在の消滅を予感し、その準備として性の目覚めがあると解釈できうるかもしれない。この時期特有の不安感、孤独感、物憂い感情は死すべき運命にある生物としての憂いなのかもしれない。

青春期
「分かって欲しい」 「認めて欲しい」 「心温めてほしい」 この理の目覚めと共に経験する絶望感、不安感を癒して欲しいと願う気持ちは切実なものがある。理は知ってしまった。暗黒の宇宙にぽっかり浮かんでいる地球は永久に存続しないということを。この動揺を鎮めようと生涯をかけた模索が始まる。理は哲学へ、精神は宗教へ、情念は快楽は、中庸は家庭生活へと。この時期の実存的問の真剣度が彼の人生の地盤強度を決定する。しかし多くが人生の持ち時間の余裕から、まどろみと感傷的人生観に陥るのが常である様に思う。

壮年期
自信満々に闊歩する壮年期の大人を見る。そんな彼らに問う「あなたのその自信の根拠は?それはこれまで築いた家庭、社会的地位、名声か?」と。再度問う「あなたは時として青春の心に戻って
自問することがあるのか? その自信の背後に無常の風が吹きずさみ、底なしの深淵が大きくぽっかりと口を開けていることを?」 彼はぞんざいに答える「そんな青臭い話をしている暇はない。
それにそれは先の話だ。」と。実は、彼は最近疲れやすくなったと感じ、人生の秋の予感を感じていた。が、欲望の充足を目的とする日常生活に護られ、人間に備わった楽観主義的傾向、不快なことには心理をも欺いても目を背けようとする人間の本能から、無常の声は彼の心には届かなかった。そんな彼をつい最近見かけた。今までの自信に満ちた面影は消え去り、不安な目が虚空を見つめていた。癌だという。先の話ではなかったのだ。

老年期
物心ついた時から、何か になろうと生きてきた。しかしその何かを作り上げている諸条件が一つ一つ剥げ落ちていく。白髪、知覚神経の低下などの肉体的老いの兆候はもとより、知的能力の減退等。今まで欲望の下に埋もれていた無常の声は全てが剥き出しになった不毛の荒野に鳴り響く。隠れよう。今まで築いた何か の影に、色褪せた人生遊戯の影に。しかしどこに隠れようと無常の声は心のうちから湧きあげる。友との打ち解けた談笑が途切れた一瞬の沈黙の中にも。全てが自分から離れていく。隠れる場所はない。しかし真の人生はここから始まる。

淋しさよ!永久にさようならへの道
無常の声は遠い太古から綿々と続く波動だ。その波動は人の心にそっと入り込み熱した頭に全ては仮の姿であると囁く。その声がいつ心に届くかは、個人の性向といつ内的深い経験をしたかによる。仮のすがたはいつか真の姿に向き合わねばならない。真の姿は色絶えた弧絶な風光の中に
ひっそりと佇む。そこには何事も受け入れた強靭な精神の強さと穏やかなる内なる微笑みがある。
この地点に達し人は初めて真の平安とあらゆるものに対する愛おしさを知る。次回はそうした内的経験をした我々の大先輩について語り合いと思います。

2012年7月3日火曜日

古池や 蛙飛こむ 水のをと  ZEN&HAIKU

微動だにしない古池の水の音
僕は長い間世俗を避け人里離れた山林の中で雲、清流、月、風を友としてひっそりと静謐なる生活を送っていた。山林での生活は単調ではあったが、四季折々が繰り広げる大自然の変化は優雅絢爛で過酷なる生活を充分埋め合わすものがあった。秋の長い夜には、時として山林の胸圧する静けさ、又暗闇の深さの締め付けられるような寂寥感を感じることはあったが、そんな時には外に出てふと見上げた上空に幾羽の白い鳥が月光に照らされながら飛び去り行く姿を見ると、大自然と自己が一体化する様な感を受け深く心満たされるのを感じたものだ。僕の心は静寂に支配され、主体と外界が調和よく溶け合い大自然の懐で時を刻んでいたといえる。

unmovable surface of old pond
I had been spending a quiet life with friends such as cloud,moon ,wind,clean moutain stream in the forest far away from human society to avoid the worldly life for a long time.Life there was simple
but change of nature which four seasons presented me  was glorious and rewarding enough to make
up for the severe life.On long autumn nights I sometimes felt oppressed by an unbearable quietness
of the forest and the depth of darkness,but at such times I went out of the house, and when I happened
to see the moon lit white birds passing away above me , I felt spiritually satisfied with a feeling of
myself and all surrounding melting into one.  My mind was basically governed by absolute quietness.
In a word my subject and external world were harmoniously in a state of oneness.

静寂を打ち破る水の音
そんなある日近くの街へ出かけた行ったとき、一人のうら若き女性に出会った。彼女の清楚な口元、その純な眼差し、そして長い髪に漂うジャスミンの様のその香り。その純な眼差しが僕を見て
微かにほほ笑んだように見えた。禁欲的な生活を送っている孤独者にとってその微笑はいかなる意味を持っていたことか!それ以来僕の透明だった僕の心の色が恋の色に染まった。脳細胞の動きは全てその女性を軸として回転し始めた。瞑想の真っ只中に彼女の白い歯が光った。まもなく
「彼女と一緒にいたい。」という思いへと発展していき、満たされぬ思いと山林生活の静かな喜びの
狭間で夜な夜な深く苦しんだ。かつて一向に向上しない自己の精神的境地に悩み、深く心奪われたことはあったが、暫くすると心の水面は静寂に戻り、あるべきところに戻るのが常であったのだが
・・・・。「煩悩に引き裂かれた世俗の苦しみ」と理は胸深く呟いた。

the sound of  water breaking quietness
One of such days when I went to a nearby town , I happened to see a beautiful girl .Oh, how inoccent
and fresh-looking her mouth annd her glance appeared to be! Even Jasmin- like fragrance seemed  to be drifting around her long hair. When she turned her eyes towards me ,her eyes seemed to  smile at me. What did the smile mean to a lonely man leading an ascetic life for a long time? Since then the
transparent color of my mind was dyed into the color of romance. Every cell of my brain started to
spin aroud the axis of the woman.In the middle of meditation her white teeth shore in my mind.
Not long before my longing for her was developed as much as "I want to be with her" .The deep gulf
between my unsatisfied wish and quiet happiness in the forest tore my heart at nights.  Once I had
experienced a similar suffering ,which was caused by the consciousness of never being able to
raise my spirituality.But usually it didn't take much time for my mind to be settled into original state
of quietness where it should be. My reason deep inside my mind said in a whispering voice,"It is no
more than a worldly pain caused by lust."

何事もなかったのように
そんな日々が続く中、思い余って欲情に負け彼女を一目見ようと再び街へと出かけて行った。以前彼女を見た地点に差し掛かった時、遠方に彼女と思しきご婦人が依然と同様に優雅に歩いていくのが見えた。よく目を凝らしてみると、やはり彼女であった。しかし今度は一人ではなく、容姿端麗
な男性と一緒であった。彼女の彼の腕に巻きついた手は僕の目には余りに残酷な光景であった。
「全ては心が作り出した実在しない虚妄の世界だ。万物のすべてを映し出す私という無色透明な
鏡(古池)に外界の対象物(美しき女性)が映し出され、暫しそこに留まり、再び静寂の中に飲み込まれ本来のあるべき所に戻ったにすぎないのだ。」と理は僕の絶望に言い聞かせた。そんな主体と
対象物の興亡を我々は人生と称しているのかもしれない。そもそも存在とは私という主体と対象物
という客体により初めて成り立つのであり、どちらが欠けても存在しえないということかもしれない。

as if nothing  had happened
Leading such days,defeated by unconrollable urge, I went to the town with the hope of seeing her again . Getting close to the spot where I had seen her before, I saw a woman, who looked like her,
walking gracefully just like before. Trying to have a good look at the woman ,I found that it was her.
But this time she was not alone. She was with  a nice-looking man! The sight of her  arm entangling
his arm was more  than cruel to my eyes. My wounded mind said in agony,"Everything is  ,after  all,
no existing world created by mind. External objects( a beatiful woman )  is reflected on my transparent mirror ( old pond ) ,which is  cause of existence, stay there for a while and swallowed into ultimate homeland where everything comes from. We may call such a rise and disappearnce between
subject and object so-called life. In the first place exisntace comes into being only the basis of the
presence of suject and object. I f it were not for either of them , nothing could be appear.

ドストエフスキーの悲痛な叫び
「神が存在しなければ全てが許される。」と彼は言った。その言葉は神という確固たる地盤を失いこの大宇宙の中で実存の不安に喘ぐ孤独の中から生まれてきたものだ。しかし彼のその悲痛な叫びも禅的に解釈するなら主体と客体の分離によって生まれてきたもので、それらが同一化されるなら存在しなかった代物かもしれない。ここに他宗教とは異なった禅の独自性があるといえるかも知れない。以上が僕の禅に関する理解です。次回のブログでは禅の出発点である無常心について皆さんとじっくりと話あいたいと思います。

grievous cry by Dosoevsky
"Everything could be allowed without God." said he.  I should think that the words was born in absolute lonliness over  existential anxiety in this vast universe after he lost the unshakable spritual ground of God. But you may be able to say that his cry was born only  by separation between his
subject and objects according to zen. If his subject and objects had been in the state of oneness, his
cry may not have occured. Here is a uniqueness of zen different from other religions . In my next
blog I'd like to talk about the very starting point of zen, a feeling of transiency, with you.