2018年8月2日木曜日

四無行 (断食・断水・不眠・不臥)

究極の終活
秋の深まったある禅寺の一室。一人の茶人と一人の禅僧が向かい合っている。茶人曰く「茶道とは一杯のお茶をただ飲み干す事なり。禅僧答える「だがそのただはそう容易く手に入らんぞ。」と。僕はそのただを手に入れるために生涯にわたって様々の事を行ってきた。一週間一人の山小屋籠り、仏陀
常道の地ブッダゴヤを中心とした仏教5大聖地巡り、週末泊りがけの参禅、夏季参禅会の参加を始めとして長年にわたり
仏教書、哲学書を紐解いてきた。しかし未だにそのただは手に入れていない。最近歳を意識するようになってきた。「一体いつになったら、どのようにしたらそのただが・・・」と言う思いは強まるばかりだ。そんな折、僕は四無行という行を知った。それは9日間、食、水を断ち一睡もせず、横になることも許されない正に死を覚悟したこの世とあの世の境界線を彷徨う行だ。僕は即座に思った。「その地点まで自分を追い込めばそのただが手に入るにちがいない」と。
生死を明らめる。それは正に真の意味での究極の終活と言えよう。僕はまるで自分が行者になったかの様な張りつめた気持ちでその行を成し遂げた人の記録を読んだ。そのただが手に入るヒントを見出すことを願って。以下の文章が僕が読んだその記録である。
四無行のあらまし
この行は千日回峰行(山頂1355mの山道を毎日48km
16時間9年かけて行う)を成就した者のみに挑戦が許され、9月28日~10月6日に行われる。人間の生存に不可欠な物を断つ故に成就率は50%と言われている正に死を賭した行である。元に当日行者は死出装束を身に着けて生き葬式を行う。その儀式には親族はもとより、行者に生前縁のあった人人が列席し、行者はその人達の前で「本日より四無行
に入ります。もし神仏が利他行(それまでの行は自利行とされる)を必要とせぬと判断されたら皆様と永遠の別れです。
有難うございました。」と口上を述べる。僕は思う、「この覚悟こそ茶道の一杯の茶をただ飲み干す入口ではないか?」と。元に行者は後日「不思議なことに当日恐れ、不安はなくあるのは幾分の高揚感と、神秘的感覚で全体として心は清澄感に包まれていた。」と、振り返っている。正にそれは無心の境地と言えよう。
9日間の軌跡










一週間前 :一日2食そして1食と食を減らしていく
3日前  :食を完全に断つ
初日   :・親族・本山の館長を始めとした一山の僧侶達
       と最後の食事をとる。本人は箸をつけず。
      ・親族・住職・行者の順で50m先の行を行う
       本堂へ入る。行者はこれが外界の景色を見る
       最後かもしれないと思う。
      ・108回の五体投地(立ったり座ったりして
       頭を両肘と両膝を地につけて礼拝)を行う。
       その間一人ひとり行者に別れを告げ本堂から
       出てくる。そして御堂の扉が閉められる。

   この日から最後の日まで毎日行うお勤め
         ・一日3回1時間強の密教の作法を本尊の前で
       行う。
      ・一日一回仏にお供えする水を天秤棒で運ぶ為
       に外の井戸まで汲みに行く。行者の過度の
       衰弱なため二人の僧侶の助けを借りる。
         ・それ以外の時間は2種類のお経を10万回ず
       つ唱え続ける。
2日目   行者の日誌から
      「やはりこの行は手ごわい。体の力は抜けるし
       心臓は踊る。しかし千日回峰行の苦しみを体
       が覚えている。どんなことがあっても負けな
       いぞ。」
 *ここで述べている肉体の記憶に茶道のただの手に入れる
  方向性を見出す。頭で覚えた知識が役に立つのは心に余
  裕のある時までの事だ。それでは対処できない地点まで
  追い詰められた時人間の知から解放されたありのままの
  世界が現れるのでは?

3日目
 ・魚の腐った様な死臭が漂い始める。
 ・死斑やシミが浮き出て爪の先から紫色に変色し、唇が
  裂けてくる。
 ・幻覚・幻想が始まる。
 ・貧血状態で雲の上をふわふわ歩いている歩いている感じが始まる。
  




 *この世における全ての認識は我々の脳の意識を媒介とし
  ている。しかしその意識が薄らぎ確固たる依存できる物
  ではなくなってきた時、その意識に代わって動き始める
  我々の主体とは?その主体が我々の真の極相と言われる
  ものかもしれない。
4日目
 ・雲の上を漂っている感覚はじんじんする背中の痛みで我
  に帰る。足は腫れ上がり耐え難き痛みが訪れる。
 ・頭を支える力さえなくなる。
 ・感覚が異常な程敏感になり線香の灰がこぼれ砕ける音が
  聞こえる。
 ・遠くで話している人々の声が聞こえる。
 ・嗅覚も鋭くなり外から入ってくる人の臭いで誰だか分る
 
 *この状態まで至ると人が大地に産み落とされた時の
  後天的常識、知識によって心が着色する前の無垢なる
  生命体の透明な認識作用が機能し始めるのではないか?
  それは自己意識から解放された天空を自由に飛翔する鳥
  の様な自由な境地に近ずくとではないか?

5日目
うがいが許される。たかがうがいと言っても四無行の中で水
を断つこと程辛い行はなくこの日が来るのを行者は生きるか死ぬかの境界線で待つ。元に5日振りに水を口に入れると粘膜がチュルチュルという音がするかのように感じ皮膚を刺す
ような痛みを覚える。うがいは2つの茶碗が用意され1つの
茶碗に水がいっぱい注がれ他方の茶碗に口に含んだ水を吐きだすと言う様に行われる。水の量が同一の場合水を飲んでいないと判断し行は続けられる。
四無行の中で最も辛いのは断水で、不眠は3日より睡魔は消失し、断食、不臥はそれほど辛くないという。
6日目
 行者の日誌より
 「体重は1日1kg痩せてきて今は大分痩せたと感じる。
  心のやる気は健在だ。今が幸せ、楽しい。」

 7日目
 行者の日誌より
 「普段私たちは如何に幸せでしょう。食べる物が無い人
  が世界には無数にいる。その苦しみに比べれば自分の
  苦しみなんて。どんな辛くとも取り乱さず、優しさ
  大らかさとのびのびと清らかな心で行じれば必ず仏に
  守らているのだ。」

 *もうこの時点では自分の力で!という意識すら消え失せ
  薄らいだ意識でただ不屈の信念と感謝の気持ちで世界に
  心を開いているように見える。心の中に何の障害物がな
  いから自分の心に入ってくるものは全て自己と同化し
  それが「今が幸せ」と言わしめているのであろう。心の
  平安、安らぎ、これが終活の真の目的ではないか?

8日目
 後一日だ。

9日目
 出堂
  ・本堂の正面の本尊の前でその周囲を3遍回る。
  ・お茶を飲む儀式を行う。実際は飲まず。
  ・2:00am 重く閉じられた厚い扉が開く

   外には親族、一山の僧侶たちが待
        っている。 
  ・自坊に帰る
  ・重湯を食べる。
            満行
行を終えて語った行者の言葉

どんなに肉体的に限界に近ずいていると感じようとも私に
は「行の中止」という選択は一度も考えたことはなかった。
一歩先に行けば死が待ちうけているという生死の境界線を
彷徨っている時、私の心にあったのは動物としての苦痛感と
「最後まで!」と言う自己に対する命令だった。3日目頃から渇水の為地獄を経験した。そして5日目うがいが許され
水が口に入って来た時の肉体を通して味わった真理の発見
とこの世とあの世が融合したあの感覚。「水がなければ人
は死ぬ。」こんな単純なことだった。そして薄らいだ意識で
「この水は一体どこから?」と考えると空気、太陽等全て
無条件で自分に与えられていることを強く意識した。すると
感謝の気持ちで心が一杯になり、涙がこぼれた。人は大自然の微妙なバランスで調和を保たれた環境でちっぽけな存在としてただ生かされているだけなのだ。その自然律に逆らわず
人間的分別を捨て無為に生きる事。それが私が行を通して得た人間として真の幸福の道です。

秋の深まった禅寺の一室。行者と禅僧が向かい合っている。
禅僧一服茶をたてる。行者その一杯のお茶をただ飲み干した。