2016年5月13日金曜日

少女と仏の世界

「幸せだな~」は瞬く間に


幸福は対象化できない。「今、私幸せ」といった瞬間身体の全細胞を駆け巡っていた一時として休むこともない生命体の本体というべき核心が、幸せという対象にくっつき固定化し躍動感に満ちたみずみずしい心地よい感情は色褪せ始める。どうやら幸せとは一瞬にして過ぎ去ってしまう運命を持つ雷光の一瞬の煌めきの様だ。その経験は突発的で、無数の偶然が織りなす千変万化の彩のようだ。

例えば、山小屋で偶然出会った人との打ち解けた会話の最中に、富士山頂に立ち雲海を通して下界を見下ろした時の「ヤッター」の声の中に、長年の知人との人間関係のしこりが溶解した時一瞬心を過ぎる安堵感の中に、家族の介護に疲れ果て散歩
に出た時感じた一瞬の微風の中にもそれは突如立ち現れる。

幸福の源流


しかしそうした感情は意識的に作り出すことも、自分のもとに留めておくこともできない。これが人生の宿命だ。何故ならそれらは全て無心の状態だあった故に経験出来えたもので、意識が加わると生命体の核心の動きがぎこちなくなり、本来の若鮎の様なピチピチした心の動きがなくなるからだ。生命の最深部、つまり我々の全行為をつき動かす根源は何物も恐れることなく前へ前へとただガムシャラに勇猛果敢に突き進む戦国武将にも似、又突き抜ける青空のもと蓮華畑を甲高い声で笑い転げながら無邪気に走り回る軽快な少女の一瞬一瞬の動きに酷似していると言えよう。



真に満たされるという意味


台風一過の数日後見る川は、大量の雨によって引き起こされた激流によって川床の土砂の堆積物は押し流され、水は澄みただサラサラさらと下流に向かって流れる。その川面に太陽の光がキラキラの反射し、時としてその水面から魚が頭を覗かせている。全てが満ち足り完璧だ。

人の心も同様だ。怒り、恨み、妬みと言った心の流れの障害物のない生命の流れは生きることの真の喜びを無心の心に注ぎ込み永遠の河口に向かって流れる。

垣間見た仏の世界


その流れに身を任すこと。それが永遠の真理に根ざした生きる

という事であり、その永遠の今の中に幸福が宿っているという事
なのであろう。いわゆる通常我々が幸福とは全存在を震わせた
一種の興奮が過ぎ去った後の余韻のことなのかもしれない。
その永遠の流れこそ、人は「仏の世界」と称している。」と僕は思うのだ。