2013年8月31日土曜日

空しい喜びから心満ちた無心の生活へ

「美味しかった。気持ちよかった。」






お手紙有り難う。相変わらず行動派の君らしく東に安くておいしいレストランが開店したと聞けば仲間誘って一目散に駆けつけ、西にカラオケ無料日帰り温泉開店記念サービスの情報が入ると心躍りだし、南に・・・・・北に・・・・・といった「美味しかった。気持ち良かった」型生活に明け暮れている事。元気でなりよりな事です。しかし気になったことが一つあります。それはそれ程多くの楽しくあるべきことをしながら空しさ、しらけのような感情が行間に滲み出ていたことです。依然僕も今の君と同様な生活を送っていたことがあり、生まれて初めて本トロをたべた時の感激は今でも忘れもしません。


こんな生活楽しくない。

しかし今は全く生活形態を変え、質素で慎ましやかな生活を送っています。ことの始まりはある日友人たちと奢侈な欧風レストランでフランス料理を食べていた時のことです。心地よい空間、友人たちの快活な笑い声、全くいつもと変わらぬある午後のひと時。眼前にはコバルトブルー湘南の海を疾走する白い一艘のヨットが。その時です。急に心の内に見知らぬ空しい様な感情がどこからともなく湧いてきたのは。その感情は後に「僕はこの生活を楽しんでいない。」と強く自覚させました。それ以来です。僕の生活が一変したのは。


「こんなことしていられない」と24歳の女性

先日24歳の女性と談笑を交わしていた時、彼女がいきなり「そうね。私もいつか死ぬのね。こんな事していられないわ。」と言い出しました。この女性を自覚せしめたもの、僕を狼狽させたもの、そして君のメールに滲み出ていたものは本質的に密接に関係していると思います。


猫の糞の防波堤

僕もあまり偉そうなことを言えた義理ではなく、今から書くこともあの日以来の連夜の読書から知ったことですが我々の「隣の猫芝生に糞しやがって!」といった小さな出来事の集積からなる
日常生活を実は尾崎豊の問「自分の存在がなんなのか分らず震えている。」とか、がんの宣告によって今までで後生大事にしていた人生の舞台装置を根底から揺るがす「自分って何のために生きてるの?」という実存的問を直視することから救ってくれる防波堤のような役割を果たしていたということです。つまり生老病死の現実を誤魔化すことの手助けをしていてくれていたわけです。行動派の友よ!残念ながら君の心の中に人生の秋風が忍び込んできたように思います。東にレストラン開店すれば・・・といったのりに乗ったあの時の気持ちは再び戻ることはないと思います。


あっきぽの家の猫

家の猫は同じキャット・フードを続けざまに上げると直にぷんとソッポを向いてしまいます。時には
お気に召さなかったキャットフードに向かって土をかけるような仕草さえします。飽きてしまうようです。我々も同様、始めどんなに刺激に満ち満ちたものでも時の推移とともに感激は薄れていく。だから新たな刺激物を求める。それも前のものよりより強い刺激物を。「その繰り返しが人生よ。」と言ってしまえばそうかもしれないけれど何か一抹の淋しさを覚えませんか?あんなに子供の頃から憧れた生活が手に入っても、その喜びはつかぬまどころか空しい感情さえ覚えるなんて。「方程式通りにはがいかないのが人生。だから人生は奥深い。」なんて最近悟ったようなことを言っていますがあの日以来一時「以前の生活にどこが問題があったのか?」真剣に考えましたよ。



遊びは真剣にやらないと

そして僕は二つの決定的間違いをしていたことに気ずきました。一つは真剣に遊んでいなかったことです。やはり恋でも趣味でも苦痛を伴なう程のめり込まないと人生で一番大切な熱い感激が得られない。特にその感激が上っ面だと心は徐々に地割れを起こし干からびていく。登山家が一銭にもならないのに命がけでエベレストのような山に挑戦する。登頂成功しても又次の山に挑戦する。ああ彼らの気持ちはこういう所にあったのかと初めて分った気がします。人生所詮遊び。その遊びをいかに真剣に行うが人生の達人の極意というものでしょうか?


フルーツ・パフェ食べ続けて幸せ?

二つ目は時には「このフルーツ・パフェ最高!」もいいけど今やっていることが自己表現ととなり、それが未来に渡って永続していくという実感がないとトロを食べ続けた結末と同じ空しく感じ始めるということです。多くの人は安定とか不安を理由に就職したり、結婚をしていきます。でもお金の問題なくても同じ選択をしたか?ということです。自分を理性で納得せしめて行った決定は、
自己の核心から湧き出てきたものでない故に行く行くは心から楽しめないという理由で何度もその選択肢を疑問視せざるえなくなるように思います。世間的価値観に惑わされず自己の核心から湧き出てきた純粋無垢なる欲求、その欲求の実現途上にいるという自覚ほど人間に充実感をもたらすものはないように思います。


一日12時間以上働いても幸せ

僕の義兄は小さい時から自分のカフェ・バーを持つのが夢でした。だから大学にも行かずその周辺の仕事に就き26歳でローンを組んで自分の店を持ち今では一日12時間以上一年中ほとんど休みも取らず働き、そんな過酷の生活にも充実感があるといっています。店のインテリアを今度はどう変えようか?そうした仕事は正に創造的な仕事であり、自己表現です。子供のころ何かが彼の心を捕えカフェバーで働くってカッコいいと思った。その気持ちは後に自分が店を持てたら…に変わっていった。そして今その延長線上に自分がいる。その一連の流れは彼の内なる純粋主体がこの世に形となって表れていく過程であり、その形成過程を通して自分自身になっていくことだと僕は思います。


断捨離

そんな彼も今深刻な問題に直面しています。後継者の問題です。彼には一人息子がいますが

父親の仕事を引き継ぐことは今一つ積極的ではない。彼が引き継がないと今まで彼が築いてきたものは消えてなくなる。でも最近はこう考えるんですよ。これが世の定めで大自然の摂理。無常から逃れられるものは一つもないってね。時間的スパーンの長い芸術作品、石の建造物、子孫さえ悠久の時の流れの中でいずれは砂に埋もれて没していく。この誰も考えたくない冷厳なる現実。でも僕はあの時感じてしまった。ずいぶん悩み、数えきれないほどの眠れぬ夜を過ごしましたよ。糸の切れた凧のように暗黒の宇宙に投げ出され自分の立つ確固たる足場を求めて。何処にいても自分はそこにいない感覚。社会の絡繰りが全く意味を失い、人々は人生の意義を装っている様に見えましたよ。喜怒哀楽の情念の嵐の中に逃げ込みたかったですね。生きるべきか or 死ぬべきか?あの時は際どいところだったですね。その僕を生の側に留めてくれたのは「捨てる」です。


泡粒のような我々の存在・・・でもこれはいける

そこに辿り着くまで座禅を組んだり、山中深く分け入って思索にふけったり、教会まで行ったりして色々なことしましたよ。でも心定まらぬ空中に浮いた様な不安の日々続いた。自分にも持て余しましたね。こんな心の状態がいつまで続くのかねって。そのうち自分に嫌気がさしてもうどうでもよくなちゃったですよ。そして「あ~面倒くさい。いっそ自分をそっくり捨てちゃおうか」と思いましてね。「自分を捨てるか?」と心で呟いたらスート心が楽になったんですよ。そして「どっちみち泡粒のような我々の存在、そんなに大事にしてビビった生き方してもしょうがないじゃないか。」という考えが続きましてね。その時直感的に思いましたね。「これはいける。暫く自分を捨てた状態で生きてみようか?」てね。


心安らかな気持ち

すると街を歩いてても気持ちが全然違う。失うもののないから心はガランド。目に入るもの耳に入るもの全てが窓が開け放たれた時の様にそのまま直接ありのままで入ってくる。それは新鮮な感覚でしたよ。そのうち見聞きしている自分と外のものが接近してきて徐々に見聞きしているという意識すら薄れてきたんですよ。それはねえ~、心穏やかな気持ちでしたよ。これで僕も何とか生き続けられるのかな~と本能的に感じましたね。


茶の味

どんなに文明が進んでも人間は生老病死の運命からは逃れられない。一時人生に用意された甘味な欲望を充足して天下を取った気になっても、いずれ秋風が人間の心の中に入り込み空しい感情を運んでくる。そうした感情とは無縁の生活を送りかったら人生を一度全面的に懐疑の目を向ける必要があると思うな。そうした後に生まれる人生の肯定は味わい深い。今、ここ生きていることを本当に有り難いと思う。あの決定的瞬間に理屈抜きに穏やかな気持ちになれたのはちょっと誇大解釈かも知れないけれど、無心から流れる永劫不滅な生命の水脈が乾いた僕の心を満たしてくれとさえ思っているのですよ。「こうした心で味わうならフルーツ・パフェも、茶人が一服する茶の味とも等しいといえるかしれない」とさえ今思っています。

人生の皮肉

でも人生って面白いと思いませんか?始め安定した幸福なる生活を求めてその条件固めに奔走した。それがほぼ成就するとそれを推し進めた自我が空しさを覚えそんな生活は楽しくないと感じた。そして自我を捨て去ることによって心豊かな喜びを感じ始めた。これが人生の皮肉というものですかね?こんなところが今の僕の心境です。ここに書いたことが人生の秋風が吹き始めたと思われる君に幾分参考になれば幸せな次第です。次回の君からの便りが楽しみです。