2018年12月30日日曜日

インドに救いを求めて(Part 2 )

「生きている」と言う実感
数日断食した後、水を喉に通した時の水分が全細胞に広がっていくあの生きているという実感。不快と感じる故に、そこに実際存在するものを虚飾的の物で覆い隠し、全て人間の本能の快を求める性向の上に成立した人為社会が大自然の気紛れで一瞬のうちに崩壊し、それまで目を背けていた全てが赤裸々に露呈した時の絶望の後に心のうちに訪れる奇妙な安堵感。そうした実感を求めインドへと旅立ち、ブッダガヤでは一心不乱に五体投地を行うラマ僧達、又ダライラマを待ち望むチベット人達の路上の人垣、そしてマザーテレサの施設「死を待つ家」でのヴォランティア活動を行い、それまでとは異次元の事を経験しました。そこには「これがナマの人生と言うものだよ!」と否が応でも目の前に突き付ける強烈な現実がありました。最少はオッカナビックリの逃げ腰。しかしパンドラの箱は開かれた。「その箱の中で見たものと生きていく以外に術がない。」と言う居直りの気持ちが生まれてくるとそれが解放感へと変化していったのを記憶しております。下記の文章は僕のインド滞在後期の経験をつずったものです。

ヨガ行者との出会い
緊張の連続で疲れ切った身と心には、ヤシの葉を揺るがす海風、無窮に広がるベンガル湾は何よりの慰安だった。又冷えたヤシの実のジュースは、限りなく甘かった。この延々と続く白浜をベンガル湾を眺めながら唯ブラブラと何もせず無為に過ごすことにした。
行きつけのレストランの給仕とも顔見知りになり、疲れも大分癒えてきたある日、海岸からの散歩の途中いつも気になっていた英語でデイバダム・ヨガアッシュラムと言う表札の掛かった高い門の前を通りかかった時、一人のヨガ行者が出てきた。顔見知りの給仕によると、そこはヨガ道場で時には外国人の生徒もいることがあるという。好奇心が僕の心を捕えた。早速接見の機会を得て生徒になる事を許された。その行者はまだ年の頃30代前半で、中国の老荘思想、仏教にも深く通じた知識人でもあった。ベンガル湾の海鳴りがまじかに聞こえる、海に面した道場の一室でヨガの手解きが始まった。午前はインド哲学の奥義書ウッパ二イ・シャドの解説がなされ、午後には初歩のヨガのポーズの実践教育があり、最後はオームと言う全宇宙を一つに表わした言葉を静かに心のうちに向かって発しながら始まるメディテーションで一日が終わった。時は永遠を刻んでいた。
自己とは何か?
行者によると時の始まり以来存在するアートマンと言う不滅の自己が、肉体が滅びる度に再生を繰り返し、最終的修業の進んだ結果は、この苦に満ちた現世に生まれ変わることなく、宇宙の源ブラフマンに帰するという。全ての説明は明確であり万物の生起は漏れなく説明されていた。しかし僕には
腑に落ちない点があった。それは一体アートマンの存在を本当に信じられるか?と言う問いであった。僕の西洋的、実証的思考は不確かなものの受け入れ事を阻んだ。
ヨガの勉学が一か月を過ぎ去ろうとしているある日、僕は海岸線を歩きながら考えていた。「フランスの哲学者デカルトは”我思う故に我あり”と言う第一命題に辿り着き、自分の哲学を打ち立てた。」僕はその時西洋の哲学書をひも解き哲学的になり切っていた。それは自己とは何かと言う、無限なる宇宙のもとで自己の実存の究極的問いを明らめんとする衝動でもあった。「しかし我とはそんなに絶対的信頼を寄せることが出来るものだろうか?一瞬一瞬自己は変化して止まない。数年前の自己は思い返してみると他人の様な気がすることがある。又肉体を通してアイデンティティーを図ろうとも
肉体は移ろいやすく、事故等によって変形し、元の形跡すら
留めないこともある。又脳裡に映った一瞬の感情、思考も真の我とは言い難い。絶対的に信頼を寄せた我が消滅した後、その今我を通して認識している対象物は引き続き存在し続ける保証はどこにもない。今目の前にある対象物も目を閉じると消え失せる。それと同様自分の死と共に全てが消え失せてしまう様な気がする。全てが夢のようであり、生は不思議である。結局どこにも我が無いとしたら、脳に映った対象物と自己にどこに違いがあるのだろうか?自己イコール対象物という事にもなりうる。



自己消滅=至上の喜び
「自己と対象物は同一である。」ここまで考えを進めて、僕は何気なく沖を見やった。すると沖合に力強くカイを漕ぎながら海岸に戻ろうとする漁師たちを乗せた一艘の漁船が目に入った。何かが僕の心の中で弾けた。南国の突き抜けるような空があった。僕は今、主体そのものに成り切っていた。海の泡となり、鳥ともなり、全ての五感が経験できる全ての物に成り切っていた。僕と外界を隔てる薄い絹の様なベールが
消え去り、僕と世界は同化していた。それは僕が経験した至上なる喜びであった。僕は今自分と信じて疑わなかった自我が消え、新しい自己が僕の中で目覚めた様な気がした。今僕は宇宙の生成の大動脈の一部であることを自覚した。それは故郷に帰還したような安堵感に満ちた感覚であった。その晩
日本を離れて以来初めて両親、恋人、友達の事を思った。インド到着以来五カ月が過ぎ去ろうとしていた。今インドへと
駆り立てたものが何であるかを知り、目的も果たされたように思えた。再び日本で生活しようと思った。帰国前に行きたい所があった。それはヨガ行者が頻繁に言及したチルカ湖という所であった。日本に帰国する前に心の整理をするには打って付けな所に思えた。プリの町からはさして遠くはなかった。行者に暇乞いを告げチルカ湖への道筋を聞き翌朝旅だった。

かつての日本での生活は?(チルカ湖にて)
チルカ湖は詩聖タゴールを始めとした数多くのインドの傑出した詩人、芸術家、思想家に大きな影響を及ぼした土地柄に
相応しいものがあった。周辺は深い静けさに包まれ、わずかに湖畔に打ち寄せる波音、鳥のさえずり、微風だけが辺りの沈黙を破った。ホテルの前方に広がった湖は、無休の広がりを見せ水平線に沈んでいた。夜になると湿地帯に生い茂った
草木には無数の蛍が飛び回り幻想的なムードを作り出していた。ここでは時は存在しないも同然だった。そうした悠久なる時間に身を任せ僕はこうした状況でいつも苛立ちを覚えていたのを思い出し苦笑した。確かに日本での生活は自虐的であった。只慌しく奔走しているのみで本当の心からの充実、満足と言う実感からはかけ離れ通り、時としてそこに「心が関与していないのでは?」と感じる事さえあった。それは自己との直面を逃避する事に目的が置かれ、娯楽、レジャー等がその手助けをしていた。人々は一瞬たりともじっと沈黙をしていることを恐れ、饒舌家の乾ききった声がアブの様に人々の耳元を擦過していた。切迫した衣食住の心配から解放された人々の関心は飽食、セックス、奇態な目新しいものや
出来事に向かい一時の官能的喜びを求め飽くことなく追従が
行われた。その追従は心の渇きを癒すかのように執拗に続けられ充足されては又求めた。それは人間が大自然の中の唯の
落とし子に過ぎないという事を忘れた傲慢な社会だった。しかし人人も又犠牲者だった。人間の野性的、原始らの叫びが、過度に管理され、抑制され、健全に消費されることのない社会では、その出口をどこかに見出さねばならないからだ。

人生の暗と明部 (星と闇との下で)

その晩僕は日中知り合った茶屋の店主の勧めで当地有名な月の出を見に、一艘の船に乗って沖に出ることにした。その晩は雲一つなく夜空は無数の星が散りばまれ闇との絶え間ない
呟きが交わされていた。僕の乗った船はカイを漕ぐたびに生じるギー・ギーと言う連続的な音を立てながら沖へ沖へと進んで行った。既に周辺は闇と化していた。暗闇に包まれた湖上の真ん中で僕はただ一人。僕の意識だけが自分を生を確信させてくれる拠所だった。月の出は遅かった。沈黙に耳を傾け静かに待った。多くの事が僕の脳にに訪れては消えていった。人や動物の排泄物、腐乱物の散乱したコルカタのスラム街、焼けつくようなギラギラした太陽の下で板の台の上に乗せられ、数人の人々の肩に担がれ町を縫って火葬場へと運ばれていく死体、絹のサリーを優雅に着飾った婦人の行きかうコルカタ繁華街の路上のらい病に侵され手首共々歪んで立つこと来ず体を地面に横たえたまま物乞いする老婆、1ルピー
[約10円)を得るために執拗に旅行者に追いすがる不可触せん民[インドの最下層の人人)の少女たち、どれもが皆人生の一側面を映し出し真実を伝えていた。確かに日本での生活も人生の一側面であった。しかしそれは全てではなかった。人間は明るいもの、快い物を自ずと好む性向を持っていた。しかし人生の暗部を一生押し隠すことは不可能だった。
真実を目隠しした社会はいずれその歪みが現れ安定感を失う宿命にあった。世界は全て両面あわせもっていた。美と醜、
貧と富、強者と弱者等、それらを全て合わせ持ったのが世界だった。それらはどちらも善とか悪とかいう人間的価値判断を離れて存在し、我々と同時代を呼吸していた。穏やかな感情が僕の心に訪れた。それは死刑因が自分の死を受け入れた時の穏やかな心に似ていたもしれない。
前方の暗闇から、明かりが薄ら漏れてきた。ついに月の出の始まりらしい。僕は力強くカイを沖へと進めた。その方向に日本での新たな僕の生活が待っていた。





2018年12月20日木曜日

インドに救いを求めて (禅の出発点)

インド放浪へと
数十年程前、僕はインドを6カ月程放浪したことがあります。日本での些細な事にも「いい加減さ」を許さない過度の管理社会に全細胞が硬直化するのでは?と言う危機感を覚えると共に、人々の振る舞い、言動の嘘くささが耐え難くインドのカオスと全てが剥き出しの社会に一息つこうと旅立った訳です。そこには僕が想像して以上の物がありました。
     
インドで見たもの
人や動物の排泄物や腐乱物が無造作に散乱したスラム街、焼け付くような太陽の下で一枚の板の上に乗せられ数人の人の肩に担がれ街を縫って火葬場へと運ばれていく死体、絹のサリーを優雅に着飾った婦人たちの行き交う繁華街の路上で、らい病におかされ手足が歪み立つ事さえできず体を地面に横たえたまま物乞いする老婆等、人生の負の側面を余すことなく伝えておりました。                                                    
新たな人生の出発点(尋牛)
禅の書物に「十牛図」というものがあります。それは最終的に何があっても揺れ動かない絶対平安なる心の境地に達する
迄の段階を十に分けた本でまず第一段階は真の自分を失った
事に気ずき、その自己を求める尋牛[牛は真の自己、牛使いは自己意識の象徴)です。僕にとっての尋牛は正に心の内からインド行を渇望する気持ちが起こったという事にあると思います。その当時の気持ちを振り返ってこのブログに記してみました。インドにはすり減った心を甦らせてくれる強烈なパワーがあります。又、「人生そんな構えなくてもいいんだよ。」と息詰まった心を和らげてくれる「いい加減さ」があります。このブログを通し僕が経験した思いを分かち合える
人がいれば幸いなる次第です。                                       
                          
  

仏陀成道の地へと
僕をインドで出迎えたものは、余りに強烈であった。どぎつい極彩色の風土、淀んだ熱風、路上の牛の糞尿、執拗に追いすがる物乞い、人々を射抜くような鋭い眼差し、粗暴な身のこなし。僕の率直な反応は拒絶反応であった。しかし後に戻る事は選択肢はなかった。不安と乱れた心を押し隠し、一路
仏陀成道の地ブッダガヤへと向かった。ガヤと言う駅で汽車から降りた後、自動三輪車に乗り継いだ。もう遠く離れて
いなかった。二千五百年ほど前、当時一苦行層に過ぎなかったブッダが、実際歩いたところを今三輪車に揺られながら通っているという思いは、特別な感があった。途中乾いた川岸
に白牛の大群が、のんびりと横たわっていた。その川岸の対岸は、長い修行の末弱り切った仏陀にミルク粥を差し伸べた
娘の名前から取られた、スジャータの村があった。二千五百年前がそこにあった。

ブッダガヤの町で
ブッダガヤの町は、仏陀成道の地に反しないものがあった。
日本、タイ、チベット、ブータン、中国等の各国の寺寺が林立し巡礼者に満ち溢れ、各々の寺ではメディテーション、セミナーが盛んに行われ、世界各国の人々を吸収していた。路上ではインド特有の花火の様などぎつい色をした線香、数珠、宗教絵本等が売られ、否が応でも町全体宗教ムードを作り上げていた。街の中央に位置した仏陀成道の場所に建立された大菩提寺では、チベットのラマ僧の呪文が流れ、体全体を大地に投げ出し、又起きては投げ出す「五体投地」と言う荒行を延々と行っている僧もいた。
ブッダガヤ到着の翌日僕は数人の西洋人と共に、日本寺にて
生まれて初めて座禅を組んだ。重奏な鈴の音がただ広い堂内
の空気を震わせ、張り詰めた緊張感を与えていた。勤行が唱えられ、その後は静けさの世界だった。時として蚊の飛ぶ音が聞こえ、あちらこちらに蚊取り線香の煙が立ち上っているのが見受けられた。時間は止まっていた。穏やかな気持ちが
僕の心をとらえた。そこには僕が今まで経験した興奮も、感激も、心の高揚もなかった。しかし心のつかえが取れた様な
快い解放感があった。

ダライラマが来る
宿への帰路、沿道に無数の人垣が埋まっていた。チベットの宗教指導者、チベット人にとっては仏陀の生まれ変わりとされているダライラマ来訪を待ち受けるチベット人の集団だという。老若男女、その中には西洋人さえ混じっていた。それは異様な雰囲気であった。体当り的であり、全てを託している様さえ感じた。信仰。言葉で知っていたが、その生きた形を見るのは初めてであった。エネルギーが迸っていた。その晩宿で町の本屋で買い求めたチベットの本を、夜遅くまで読み耽った。
鳥葬をを見て生気が
本の中の写真が壮絶なシーンを伝えていた。それはバラバラに切り裂かれた人体の肉片を啄む鳥の群れであった。写真の遠景には広大なヒマラヤ連山の裾野に平原を眼下に、大きく
弧を描いて飛翔する鳥の姿であった。役目を終えた肉体は,他の生物の中で新しい細胞を生み出す。それは万物生成の変化の縮図であった。またそれは人間的感情すら寄せ付けない
厳粛なる太鼓以来の真実の世界であった。本はその写真が高名なる僧の死の際等に行われる「鳥葬」と言う名誉ある弔い形式であることを説明していた。人間は大自然の中では卑小な存在であった。何かが僕の心の中で薄らいでいくのが感じた。それは僕の中で中核をなし、誇りにさええ感じていた西洋的自我の意識であったかも知れない。失われた生気が甦ってきた。何か今までとは全く異なった発想の肯定的な事をやってみたいと言う気持ちが湧いてきた。日本寺で出会った西洋の若者のコルカタのマーテレサの下でのヴォランティア活動の話が思い出された。その思い付きはその時の僕の気持ちにぴったりと合った。翌朝、大菩薩寺に丁重に礼拝し一路コルカタへと向かった。


マザーテレサの愛の施設
マザーテレサの”死を待つ家”は、コルカタの中心街からバスで約十数分の所にあった。その施設は、路上で倒れた寄る辺ない人たちの収容所で、マザーテレサのシスターたちを中心としてマザーの愛のメッセージに共鳴した世界の若者達によって運営されていた。運び込まれたほとんどの多くは、不治の病に冒されており、簡単な医療手当を受け間もなく死んでいった。そこでのヴォランティア活動は特に一定の決めれた仕事はなく、体の不自由の者には入浴や食事の手助けをし、又食器を洗ったりすることを主たる日課としていた。時として爪を切ってやったり、手や背中を摩ってやったり、各自気持ちの赴くままに、自主的に自分の気持ちを表現することに主眼が置かれていた。ヴォランティア参加者の中には自国でPHDコースを取得した後、直ちにこの活動に参加し、すでに六か月を迎えようとしている西洋人もいた。

献身的シスター

ここにいることは決して楽な事ではなかった。緊張感が支配していた。死の臭いがした。収容された者のほとんどが観念したように運命を受け入れ、ただひたすら最後の時が来るのを待っているようであった。痩せ細った腕、生気の失せた顔色、全身火傷で捲れ上がった皮膚、虚空を見つめる眼差し、全てが人生の暗部を呼吸していた。かつて僕は自分の労働に対し報酬を得ることは当然と考えていた。しかしここでは違っていた。全てが無報酬であった。幾度となく僕は立ち去る正当性を考え出そうとした。しかし献身的で明るく振舞うシスターたちの姿に自分を恥じ、理性は僕にここに留まる事を命じた。シスターたちの働きぶりは目を見張るものがあった。「何が彼女たちをそこまで突き動かしているのだろうか?」と、僕は自問した。聞くところによると、彼女たちの多くが何不自由ない家庭で育った中産階級出身の娘さんであるという。理性的、合理的判断ではなかった。そこには僕の推し量ることの出来ない大きなもの、絶対のものが彼女たちを動かしていた。


運ばれてきたインドの乞食
ヴォランティア活動も、二週間目に入ろうとしていた。いつもの様に入口に掛かったキリスト受難象のレプリカに目をやりながら、薄暗い室内に入ると騒ぎが起こっていた。騒ぎの中心にボロを纏った老人が弱弱しくうずくまっていた。髪は
埃と汗でベッタリと頭にこびりついていた。さっそく消毒液風呂の体洗いが始まった。痩せ衰えた体は軽そうに見えたが
他人に全てのみを預けた体は意外と重かった。タワシの様なヘチマで、なんども力を入れて洗った。体を洗い終えた後、散髪が始まった。まず温水を伸び放題の髪に十分かけ、ハサミでジョギジョギと無造作に切り落とし、その後たっぷりと虎狩になった頭に石鹸を泡立て,カミソリで坊主頭に仕立て上げた。その間路上の人は、意味不明のヒーヒーと言う声を
発するのみであった。そして十数分後、小ざっぱりと変身した身寄りのない患者は毛布に包まりベッドに静かに横たわっていた。その日以来、その老人の面倒を見るのが僕の日課になった。

重症の老人と共に
その老人は重体であった。見動き一つ出来ず、一匙のスープでさえ喉を通すのがやっとであった。食事は時間がかかり,五匙程のスープで一回の食事は終わった。排泄物はその場で
容器に行った。老人は終始大きく見開いた目で天井を見つめ、しばたきを力なく繰り返した。リンゲルが打たれた。容態は回復する兆しはなく時間の問題だった。ある時、水を飲ましてやっていると老人の目が自分に注がれているのを僕は
感じた。無防備な目であった。何の装いもなくその眼は僕の
顔を見つめていた。そこには死への不安と恐怖があった。これ程まで包み隠しもなく死への恐怖を訴えた目を見たのは僕は初めてであった。数日後老人は死んだ。その日僕は老人の死体を純白な布で覆うのを手伝い、最寄りの火葬場までついて行った。老人の顔は生前よりずっと穏やかな表情を浮かべていた。

老人の死後心にポッカリと穴が
ヒンズー教徒の誰でもが望む生の末路は、ガンジス川の川岸で家族に見守れながら荼毘に付され、その灰を流されることだというのを僕は聞いたことがあった。滅びた肉体が火によって化学変化を起し、一部は天空に塵埃と帰し、一部は大河に消えてい行くこの自然の大摂理を僕は今、自然に受け入れることが出来るような気がした。”死を待つ家”でのヴォランティア活動も一か月が過ぎ去った。僕が死を見届けた老人がいなくなって以来、ポッカリと心に穴が空いたのを感じた。
休息が必要だった。ヴォランティアの仲間からコルカタから
電車で数時間程行ったところにあるプリと言う避暑地を勧められた。数日後その地に旅立つことにした。

次回のブログではヨギ行者との出会いや、瞑想的雰囲気に包まれたタゴールなどの詩人にインスピレーションをもたらしたチルカ湖での月の出の体験などについて記したいと思います。











































2018年12月4日火曜日

Seeking Zen For Salvation (way to idiot saint)

Self-love,enough enough enough
"The world of death is anarchy and beyond limit of
time. Slow,endless and infinitive time embraces
spring and fall. Even the pleasure which the empires of the past time enjoyed can't beat the world of death. I have no wish to throw away this
pleasure  and to place myself in human world full of agonies!" This is a quotation from Taoism , an ancient Chinese philosophical book.  Life is continuation of suffering. The root of suffering is the consciousness of me. I, I , I, enough, enough
enough. Asking myself "How come you love yourself so much?" , I feel sick of self-love. But
at the depth of my mind I find another self-addicted myself affirming such myself. I sense that
I will come to dead-end sooner or later and that
the time will come when I face  cosmic loneliness 
without being able to depend on a large number 
of titles written on my visiting card. What can I do
about it? I have lived a life with the attitude of denying what couldn't be logically proved. 
Image of zen priest sitting quietly
When thinking of such a thing , a gallant image of a zen priest with unmovable face under dancing
 ginkgo leaves rises in my mind. With the image in my mind,I extend my imagination as far as the time before I had  titles. Then how light my mind become!It was as if all sinkers sticking to my mind has gone. 
Life with blood rushed to my head
When I look around myself in such a state of my mind, I feel somehow all the stars shining above
coldly as if they were pushing me away  and the appearance of downtown sunk down below looked unfriendly. What on  earth happened to me? This change of my mind! The fact is that I had been living with blood rushed to my head. I had seen everything in the state of my mind. Now that my head cooled down, I must find the new way of living for myself who lost the firm ground and drifting in the air. The way of my new life must be built on my true self. 
The way to absolute peaceful mind
It was the way leading to everlasting hometown 
with no room for anxieties to rush in , that is to say the way to seek NO MIND not belonging to either living nor death. Long time ago I once read
a book titled " The ten ox-herding pictures and 
commentaries " depicting the stage of zen practice
leading to the enlightenment. The book was written  by a Chinese monk in 12th century. If I follow  the path shown in the book , my mind may
get a little lighter. In such a disparate mind I decided to walk along the path , ready to sacrifice
everything . I feel that this is the only way for me
to survive  although I am not sure if I can find the way to patch up myself. In the next blog , I'd like to write about the first step to recovery. 

Introduction of the book
In the book appear an ox and the ox tamer. The ox
symbolizes the ultimate undivided reality, the 
Buddha nature while the tamer symbolizes the self, who initially identifies the individuated ego.
They are separate at first, but with progressive 
enlightenment, united in the realization of the inner unity of all existence.