2014年7月8日火曜日

アホのイタリア巡礼紀行 (キリスト教から禅への帰還)

                                                                                                    * zoom upしてお読みください Read after zoom up
                                           
わしはアホや 

イタリアへ出発の成田空港。Gチケットを使おうとするがやり方が分からん。係員に頼むといとも簡単に即座に解決。わしはアホや。飛行機内。座席前のちっちゃな画面で映画を見ようとするが使い方分からず、”Excuse me?"。わしはアホや。イタリアで出発前のユーロー・スター特急電車。「おしっこ洩れちゃう」と電車内トイレを必死の形相で開けようとするが、ガンとして動かず。電車が発車すると同時にスーとドアが。「アホ、アホ、アホ」わしは正真正銘の時代遅れのオヤジ。これを認めてしまうと「なんだこの心の軽くなった世界は!まるで髪ボサボサ、楊枝咥えて高級レストランで飯を食っている感じではないか!」 少しでも人によく見せよう。よく思われたい。そんなちっぽけな虚栄心を満たすために、なんと多くの労と時間を割いてきたことだろう。他人の目を意識して行動すること。それは演技だ。演技は自分でない人の役を演じることだ。と、分かっているが平凡な自分を認めたくない内なる抵抗が「何々かぶれ」を演じようと欲する。しかし生存を脅かす程の逆境に陥った時、凍てつく孤独の中で役者は舞台衣装を脱ぎ、そして呟く。「自分はおにぎりが欲しかったのだと。」自己のありのままの状態にいるとき全てが落ち着き静かに見える。自己のありのままの状態は人により異なる。自己のありのままは僕の場合どういう状態なのか?その探索は人の純粋個、つまり心の本源」を探す旅である。それがイタリアにあるのか?日本にあるのか?それを探し求めるのが今回のイタリア旅行の究極の目的だ。


そこが羨ましいイタリア社会

イタリアのメルカート(直売市場)は、赤・黄・緑の色とりどりの極彩色の野菜・果物そして多種多様なチーズ、サラミで埋め尽くされ客と売り手[生産者]の声が勢いよく飛び交う。そうした社会の「動」のダイナズムの象徴のような場所の真裏に、イタリアではよくあることだが社会の「静」の象徴の教会がある。この社会の「動」と「静」のコントラストがイタリア社会を象徴する。イタリア人は人生をエンジョイする天才だ。よく食べ、飲み、話し、セックスをする。彼らの大げさな身振りを交えた会話は軽快なテンポで屈託なく、深刻な話題もどこか笑えるものがある。世界の恋人イタリア人の性に対する貪欲さは、隙あらばで親族の集いで義理の兄と妹が何々という話は日常茶飯事で、カソリックの抑制力も限界があるようだ。そうした現世的人生を最大限に謳歌する反面、心の問題があると真裏の教会に駆け込む。そこで全知全能の神に救済を乞う。すると心は癒されるという。そうした社会構造が今でもかなり生きているようだ。現にイタリア滞在中いくつかの教会内で、絶望に打ちひしがれた表情をした何人かの人々を見かけた。あの教会特有の静寂に身を沈め、両手を固く重ねあい、一心に祈っていた彼らの姿が今でも印象に残る。
人生には悩みがつきものだ。生きた宗教が社会構造の基盤となっていない日本では、悩みがあるとほとんどの場合人間に頼る。家族、友人、カウンセラー等。しかし人知を超えた老い、死の様な問題に有限なる人間がどれくらい根本的解決の手を差し伸べることができるというのであろうか?人の頼りなげな微弱な言葉より、ただ全てを受け入れ、片時も離れずに寄り添ってくれる聖母の慈悲の暖かな眼差しの方が、死の恐怖を拭い去ってくれるのに有効といえないだろうか?そうした救済を可能ならしめる前提に信仰を育む精神文化の土壌があることは言うまでもない。もしかしたらそんな精神文化の土壌にイタリア人の底抜けの明るさは支えられているのかもしれない。つまり中世より変わらぬ町並み同様、来世まで支えてくれる不変なる絶対的安心感が。そこに僕が羨むイタリア社会がある。

聖母の救いの手を受け入れられない僕の理由

僕は神のような絶対的存在を信じたい気持ちは人一倍強い。その気持ちは加齢と共に強まってきている。最近では映画、書物など全てが宗教関連のものばかりだ。そして今回のイタリア滞在中数多くの教会を巡り、また教会の中に入って長い間心の敬虔な気持ちで瞑想を続けた。心の平安を求めて。しかし心の平安は訪れることはなかった。むしろ率直に言うと、そこには自己のありのままでいることを阻む異質のものさえ心の中に感じたというのが本当のところだ。
結局、ぼくにとってキリスト教は理性を通して入ってきた観念的代物で、僕が青春時代自分の実際の友以上に身近に感じたヘッセ、ドストエフスキーの主人公とは異なり、幼少時キリスト教の関連行事等を通して日常生活におけるキリスト教信仰の皮膚感覚の欠如がキリスト教圏で育ったものなら当然潜在意識下に育まれ、眠っているはずの懐かしいといった郷愁に似た感情が起こらなかったということだろう。
結局イタリアには僕がありのままの状態で絶対的平安を感じさせてくれる場所はないのか?と悲観的気持ちを抱いていた時、その気持ちを否定してくれる場所に出会った。

マドンナ・ディ・サイアノ教会


その場所は、マドンナ・ディ・サイアノ教会という。その教会は中部イタリアのリミニ州に位置し、緑の絨毯の敷き詰められた小高い丘の頂に立ち、その頂から辺り一帯360度のグリーン・ワールドが一望できる。人々は草木の間を縫うように走っている細い小道をたどり、最後は石の階段を登り教会へと至る。その素朴な外観をした教会は、いかにも地元の精神的安らぎ場所といった風情で、若者の恋の悩みといった軽い悩みも気軽に持ち込める気楽な心地よさがある。そこに立ち,目を閉じ、耳を澄ますと聖フランチェスコを描いた「the brother a sun the sister a moon」の主題歌のメロディーが聞こえてきそうな気さえしてくる。そうした大自然の真ん中に身を置いていると、自己の卑小さ、世俗の問題のちっぽけなさを感じ解放感で心が一杯に満ちてくるのを感じる。その教会のドアを僕が押したのはそうした心の状態の時であった。教会内には5月の柔らかな光が充満し、薄暗い光の中で虚ろな目を天に向け、青白い指を重ねて一心に祈る聖人たちの大自然の大動脈の鼓動を押し殺したような陰鬱なイメージに象徴される僕がそれまで訪れた他の教会とは全く異なった明るい雰囲気が漂っていた。僕はそうした空間にに包まれ、椅子に腰かけ静かに瞑想に耽った。その間5月の穏やかな光が室内に注ぎ込み続けていた。僕の心はどこにいるのかも忘れ、いつしか知らず自己と自己を取り巻くすべての外物との対立関係を超えた、全てが溶解し合った光まばゆい唯心論の世界へとさ迷い歩き始めた。


聖母マリアとのミクロの心の距離 

唯心論の世界とは、理性を手放し無限なる絶対世界に自己の全てを投げ捨てた時心の内に起こる人知を超えた絶対真理に満ち満ちた光眩い神・仏の世界。そこでは無限なる暗黒の大宇宙で、何処にいるのかも知れず一人彷徨う人間の絶対孤独は癒え、無常の風も萎え、老いも死もない、永遠の一瞬一瞬の時の流れに深々と身を任せる事ができると記された天上の楽園、極楽の世界だ。そんな世界にどれ程の間、浸った気分になっていただろうか?しばらくして心地よい眠りから覚めるようかに目を開けた。すると目の前の聖母マリア像が目に入ってきた。その気品あふれる指先、神々しく穏やかな表情、いかなる罪人をも暖かく包んでくれそうな大きな愛に満ちた腕と胸。長い間どれほど人々の心を救ってきたのであろうか?しかし。しかし。眼前の像にミクロの距離を感じる僕の心があった。僕はこの教会をとても気に入った。教会の中で感じた静かな心地よさは久しく経験していなかった感覚だ。今、死地に追い詰められた時最後まで心に寄り添い、愛の微笑みを送り続けてくれる絶対的心の支えを求める気持ちは増々強まるものがある。観念的宗教論議を重ねる気持ちの余裕はもうない。「しかしなんだろう?僕の心にある聖母マリアの愛に飛び込むことを阻む薄い皮膜のようなものは?」この問いに答えること。それは今回の旅の目的、「ありのままの自分とは何か?」を見出すことに直結しているかもしれない?と、僕の心は直感した。そしてその問いの解答は意外なところにあった。

パソコンと哲学

イタリア滞在を通して僕は姉夫婦のところに滞在した。僕がマドンナ・ディ・サイアノ教会から帰った時、甥はパソコンを使っていた。僕の顔を見ると、彼は顔を上げ、パソコンのスイッチを切った。すると今まで画面に存在していた全てのものが一瞬にして消えた。その時だ。何かが僕の心の中でクリックしたのは。「ものは存在しない。それは一時の現象に過ぎない。」という考えが、まず浮かんだ。そしてその考えは、次の哲学的思念へと続いた。

万物の存在はこの画面に映った文字、絵、写真等と同じだ。パソコンの機能は我々の知覚作用だ。誰かがスイッチを入れ、あるボタンを押す。するとプロバイダーにプールされていた情報が一瞬のうちにして、我々が知覚作用を通し物を認識するように画面に映し出される。再びスイッチを切ると全ては消える。我々が目をつぶると物が消え失せるよに。
結局、物の生起は対象物とそれを映し出すスクリーンの両者によって成り立っている。片方でも欠けると物は生起しない。道元禅師が言ったことはこういう事かもしれない。「空は鳥によって生まれ、海は魚によって生まれる。鳥、魚、がいなかったら空も海も存在しない。」つまりこの世の万物は、スイッチを入れる前のパソコンの画面がなにも存在しなかった様に実体はないものなのだ。


僕が達した「ありのまま」を生きるとは

僕は以前一時しげしげと禅堂に通い、多くの禅関係の書物を読み耽った時期があった。よってそうした考えには比較的精通していた。が、今その考えが特別の意味を持って生きた言葉として僕の心の中に浸みこんでいくように感じた。
結局このことだったのだ。聖母マリアの愛を素直に受け入れることができなかったのは。つまりキリスト教はすべて言葉を通して「信じれば救われる。」に依存している。そこには天地創造の記述に象徴されるように、どこか僕の心に「本当?」という不信があったのだ。宗教は理でなく情に依拠していることは分かる。しかしどうしても僕が非キリスト教圏で生まれ育った故か?その不信を拭い去り、聖フランチェスコのように、祈りによって宗教的高みに達するには無理があるような気がする。
結局、僕の理性がギリギリのところで受け入れられる納得できる人生の在り方とはパソコンの画面に何も映っていない状態、万物の生起がなされていない本源の状態、つまり自己のありのままの更地の状態を生きるということなのであろう。その延長線上に僕は世界の不合理、不条理が雲一つない僕のありのままの心のスクリーンと外物が溶け合って作り出された光の洪水。その洪水によって洗い流された生死を超えた「空」の世界があると僕は信じる。
そしてその世界は今僕がこのブログを書くことに成り切っている無心なる「今、ここ」にあるということなのであろう。

・・・・・・・・・・という様なことを考えたイタリア巡礼旅行であった。もちろん帰路、Gチケットの手続きは係員に依存し、飛行機内での映画鑑賞の操作方法は親切なスチュワデスの好意に甘え、おまけにチェックイン・カウンターでお土産のブランデーを機内持ち込み品として堂々申請し、寸前のところで没収されるというお粗末なことをしでかす旅の幕切れだあった。
わしはホンマにアホや。