2018年10月28日日曜日

"HELP" の究極の声

人生を長くやっていると・・
人生を長く生きていると、多くの苦悩に遭遇する。その苦悩も自分の努力、医学などの力ではどうしょうもない種類の悩みを経験するようになる。そんな時我々の多くが問題解決の
術を失い、途方に暮れ、悲嘆の余り絶望に陥ること多々ある。しかし最近僕は苦悩そのものは完全に消え去るわけではないがかなりの程度緩和する方法を見出した。

人間のモノサシを捨てる
それは一言でいうと不完全な人間のモノサシを全て捨て、自分自身の知的判断、物の考えを標準としないことである。
いくら偉そうなことを言っても我々の物の考え方など、所詮
生まれた時の遺伝、その後の境遇,習慣、教育、経験等の
「寄せ集め」に過ぎない。それに我々の苦悩と言っても、それは欲望充足に根差しており、一つの苦悩が消え去れば、本当に心安らかになるかと言えば決してそんなことはなく、再度次の悩みが頭をもたげてくるのが実情である。又、悩みがなかなか解消しないと、まるで子供の様に愚図り始める。もちろんそれは人間として自然なことかもしれませんが、そんな状況においても幾分でも平然としていられる方法はないか?と、日々小さな事にも動揺する心で考え、様々の事を行って来ました。それが下記の事です。

ナムアミダブツ
それは一言でいうなら「まぁ、人間どうにもならないこともあるさ。所詮成る様にしかならないもんさ。」と言ったまな板の鯉の心境と類似していると言っていいかも知れません。具体的には僕が試みたのは「ナムアミダブツ」と、全てを仏に身を委ね唱え続けることです。自信満々の顔をしている大人でも心の奥底では不安があります。そもそも生きていくこと自体不安と共存するという事なのかもしれません。僕もよく自分自身の振り返った時自分に愛想が尽き全くやるせなくなる時がよくあります。

今のご時世で
今日この種類の話をすると多くの人が「今の時代では時代錯誤もはなはだしい。」と言った反応をし、自分が論理と理性に基ずいた知的考えの持ち主であることを誇りにしているように見られます。そのような人に会う度に僕は死と向かい合わざるえなくなって時、一体彼らはどこに心を委ねるのだろうか?という問いが心に湧いてきます。おそらく彼らはそこまで考えざれえないほど追いつめられた経験がないのでは?」と思わずにはいられません。

それは「空」の状態と同じなのでは?
遅から早かれ、100%その日は来ます。その時助けを求める声は「ナムアミダブツ」である必要はないかもしれません。「お~、神様どうかこの罪人をお助け下さい。」でも同じ効果があるかも知れません。しかし、不思議です。ただ単純に「ナムアミダブツ,ナムアミダブツ」と連呼するだけで悩みが軽くなっていくのです。もしかしたら「ナムアミダブツ」を唱えている時の心の状態は、「空」の状態、つまり大宇宙と一体になっているのかもしれません。本来のあるべき状態になっている。故にのそのように心が軽くなるのかもしれません。