2017年1月28日土曜日

神様!助けてください。Oh、God!Please help me.

私も弱い人間です。
いかなる宗教であろうとも、その本質は「私は弱い人間です。どうか御助けを!」の声に優しく耳を傾け、「私も弱い人間なんです。一緒に助けを乞い求めましょう。」の絶望の共有に基づく
あらゆる心の苦悩に応える所にあると思う。現世で家族、友人、富、等あらゆる防護で心を覆っても、人間の心の奥底は孤独で、その孤独を癒す為に本能に基づく現世的欲望で払拭しようと努めるか、どこかにこの冷え冷えとした心を温めてくれる所は?と、心の内で追い求めるといったところが人間の行動の動機の根源にあると言っても過言ではない。

増々孤独な時代が
現代は過去にもまして孤独な時代だ。知れば知るほど不安になるのが人間の常で、今までそれ以上は神の領域とされていた物が、血の通わない科学のメスで解剖され、その結果人間を更に
深い孤独へと追い込んでいるように思える。それも生命科学の様な最前線にいる人たちの多くが、永遠、無限な中で人間の卑小さの意識から来る暗黒の宇宙に向かって息絶え絶えする絶叫する以外に自分の気持ちを表す術がないと言った身の毛もよだつ絶対的孤独感に追い込まれたことのない人たちである。彼等にはアインシュタインの宇宙を前にして「この秩序、法則を前にして「神の仕業としか言いようがない。」と言わしめた
無限を前にした時の謙虚さはない。

疑問?
僕はその孤独からの救いを禅に求めた。西洋文学などを通して知ったキリスト教を中心とする一神教は、率直なところ嘘っぽく感じたからである。しかし最近僕は禅の持つ排他性に自分も含めて本当に命を捨てるほどの精神的覚悟のない弱き者[遠藤周作著「沈黙」の吉次郎等]が、禅によって救われえるのか?という疑問が湧いてきたのである。そして聖書をひも解いてみた。
「温かい。包み込むような温かさだ。」と、僕の感情は反応した。
「でも、教義の中心となるいくつかとなると・・・・?」とぼくの理性は疑問を呈した。「しかし2千年にも及ぶキリスト教の歴史の中でトルストイを含む数多くの天才が最終的にキリスト教を受け入れた。何故だろう?」と、僕は深く考えた。一つだけ分かった事がある。彼等はキリスト教を理性よりも信仰心で読んでいたという事実だある。人生は苦しい。のた打ち回る。何とか逃げたい。助けてくれ。そこまで追い詰められないと宗教の一歩は踏み出せない。


禅とキリスト教
そして僕は禅とキリスト教の違いについて考えてみた。禅を含めほとんどの仏教の宗派はいう。仏教の出発点は無常心だ。つまり全ては消え去る。跡形もなく。そして禅はその救済に「空」の体得を置いた。つまり悟りだ。我々が思考を放棄した後の生にも死にも捉われない無心の境地というわけだ。
一方キリスト教も僕の理解する限りでは出発点は死への不安から発した永遠の命を求めるところに根源があるような気がする。
ということは、双方とも出発点は人間の永遠、無限の中の絶望感にあることに変わりないという事である。そして双方とも「私、私、私、・・・」といった自分の我が形作った私という観念を捨て去る事によってのみ真の平安の心が得られるという所も同じような気がする。元に無心に成り切った座禅の時の心の状態とキリスト教の神に全てを委ね、自分という意識すら失った深い瞑想状態と、どこに相違があるのだろうか?これは全ての宗教に通じているのかもしれない。

復活・処女懐妊等の奇跡の禅的解釈
今までキリスト教の中で最も違和感を持っていた奇跡等の現代的科学から見ると受け入れがたいことを禅的に考えてみた。確かに「私がこうこう考えている。」的、私と対象を分離した思考形態ではありえない話であるが、元々本来物は存在しない。万物を映し出す私という鏡つまり主体と対象物が両方あって初めて物は存在するという考えに立てばそうした非科学的な事も可能になりうるのではないか?

こう考えると心は楽に
それにしても不思議なことだ。そのようにキリスト教、禅に関わりなく自分の存在を徐々に無化し、消していくように考えを推し進めていくと心は平安に成っていき元気になっていくという事実である。宗教の精神に基づき偉業を成し遂げた歴史的人物を思い浮かべる。僕の部屋にも掛けてあるアッシジの聖フランチェスコ
の肖像画、マザーテレサ、ガンジー全てが心の奥底に平安を見出した人々だ。あの揺ぎ無い顔、強い信念の背後に隠された絶対的心の静寂がそれを物語る。

ねぇ、心安らかに生きていこうよ!
現代人は幼少のころから心身共々あまり苦悩の経験なく知識だけ豊富になり、それが増々人々を不安の種にしているように思う。平均寿命に対する意識過剰がその好例だ。「人間病気になれば病気成り切り、死ぬときは死ねばよい。」という良寛の言葉は心を軽くしてくれる。そこには禅的永遠の平安がある。
道元は言う「仏道を学ぶとは自己を学ぶことである。自己を学ぶとは自己を忘れることである。」・・・このことは僕の解釈では自己を無化し無心に成り切ることである。・・・は、そのまま神に自己の全てを投げ捨てるキリスト教の絶対的自己否定の行為と同質ではないのだろうか?とぼくは最近思うのだ。
ねぇ、みんな!いかなることが起ころうともそっと逃げ込めることの出来る絶対的心の慰安所を持とうよ。心安らかに生きるために。