
小鳥に話しかける聖人
人生のブラックホールを通過した者達が、決まって感謝の気持ちで人生の同胞者の大先達として仰ぎ見る、あるタイプの人物像がある。自分たちが絶望のどん底で喘いでいた時、自分達が味わっている絶望の数倍もの血みどろの過酷の経験をした末の穏やかではあるが全てを受け入れた確固たる表情で勇気を与え、絶望状態から救出してくれた人々だ。そうした人々は何故か特有の共通の特徴を持っている。幼児の様に純粋無垢で飾りがなく構えた所もなく、一見単純そうで静けさと内面的強さを内包している。ある時小鳥と話しかける聖人の絵を見た。その聖人は12世紀に生きた聖フランチェスコという人であった。その後偶然にその聖人を描いた"Brother Sun and Sister Moon"という映画を見た。直感的に感じた。この人は本物であると。
変わらぬイタリアの精神風土

そしてこの聖人を育んだ精神風土はいかなるものであるのか?という問いが心の中に起こった。その問いに促され訪れたイタリアのウンブリア地方という所はあちらこちら500年前に起こったルネッサンス期と変わらず一日幾度となくあちらこちらで教会の鐘が鳴り響き、多少の近代化の影響は受けているものの当時と同じ文化的土壌の上に、当時と同じ建物の下で陽気に生活を楽しむ人々がいた。
聖地アッシジ

神の声

永遠の幸福
彼は44歳で死んだ。しかし彼の一生は誰よりも幸福だったといえる。彼には奪われ物がなかった。
命すら神の思召しとして喜んで差出したことだろう。彼の一瞬一瞬は永遠へと続く道であった。よって一般の人の最大の恐れ。無常、死の恐れからは無縁であった。徹底的自己否定から生まれた永遠の幸福。それは青春時代快楽の限りを味わい尽くし、戦場にては無数の悲惨極わりない人の死を見た彼だからこそ辿りついた幸福といえるのかもしれない。
巡礼を終えて
今日、老若問わず多くの人々が自ら命を絶つ。そのほとんどのケースは今迄心の拠り所としていたものを失った故のものだ。世は無常だ。その無常なものに全面的に心を預けることは余りに無防備とは言えないか?生死の崖っぷちで追い詰められたとき人は自分以外のことを考える余裕はない。そんな時全てを受け入れてくれる絶対的心の拠り所こそ生の方向へと力を与えてくれる唯一の源泉ではあるまいか?フランチェスコは全ての世俗の喜びを放棄することにより新たな人生の道を歩み始めた。彼が命を絶つことなく生に留まる選択をしたのはほんの紙一重のところだったといえる。人には様々な幸福感があってもよい。しかしフランチェスコが示した万物のすべてを等しく受け入れ友とする絶対時間の中に生きる生き方こそ何ものにも壊されることのない揺るぎない幸福といえるのではあるまいか?そんなことを感じ考えたアッシジへの巡礼の旅であった。