取りとめない不安感が再び…


僕は今まで生死に関連した本はかなり読み、一応その事は深く考えてきたつもりでいた。しかし
今回の友の死の知らせに僕は狼狽した。若き頃の「まだ先の話」と、多分に観念的だあった死へ
の思いとごく近い将来100%の確実性を持って起こりうるという死の実感とは大きな隔たりがあった。知識は死地に追い詰められた極限状態の状況では人の心の支えにはならないと改めて感じた。人間の理性は万物を全て飲込み押し流していく大自然の摂理、生成の変化の前では余りに無力だ。この絶対事実を強く意識していたからこそ、若き頃様々な宗教に首を突っ込んでみた。そしてその後もその生死の問題を中核として生きてきたつもりでいた。が、動揺した。求道の徹底度が足りなかったということだろう。又、妥協と安逸を基軸とした人間存在の暗部には本能的に目をそむけた危機感の失せた善良なる市民生活にドップリ浸かり過ぎていたという事であろう。
原始の叫び
しかし月光に向かって遠吠えするオオカミの原始の叫びが生命体の中核に戻ってきた。近代の禅の中興の祖といわれる白隠が、幼少時代海辺の上を流れる浮雲を見て無常を感じたあの純粋な時空感の無限を感じた時の取りとめなき不安感だ。その味は苦く決して心楽しませてくれる物ではないが全てが真実に満ち清潔だ。「いよいよ来るべきものが来たか!」と、心は身構える。今回は先延ばしにはできない。今後どのような気持ちで人生を送れるのか?ここで決定するといっても過言ではない。快活な生活を送りながらも、加齢と共に色濃くなっていく死の影に心の奥底で不安を抱きながらも従来通りの現生的喜びに依存して、その不安を払拭しようと努める日々を送るのか?それとも、笑い興じている真っ只中にも心の内に忍び込んでくるその空しさの感情に耐えられず、意を決して生死の問題に真向して対峙し絶対的心の拠り所を掴みとり覚悟して今後の人生を送るのか?どちらの選択をするにせよ、その決定の持つ意味は重い。
崖っぷちで心を支えてくれるものとは?
その結果は、死の直前の心の状態に如実に表れることは確実だ。そしてその死は遠い将来の話ではない。いつでも起こりうる問題なのだ。もう一刻の猶予も許されない。ギロチンが今にも落ちようとしている状況なのだ。絶体絶命だ。こんな時と言える。自分が崖っぷちに立たされた時、本当に心に最後の一瞬まで寄り添い見捨てずに支え続てくれるものは何か?と分かるのは。それは人間には求められない。非力な人間は、救いのない絶望のどん底にいる人間の心に対して絶対的確信を持って「心配しなくていい」と言って心安らかな微笑を送ることはできない。それは理を超えた迷える子羊を、大きく広げた腕で抱きしめてくれる大安心を約束してくれる絶対世界からの救いの手なのだ。
心落ち着かせてくれた一冊の本

心軽やかにしてくれた本の中身

万物と一体化した心安らかな人生
人はこの世に生を受けて以来成長と共に自我が成長し、その自我を自分の人生の中核に据え人間社会の中で数多の喜びを覚える。しかしその喜びを獲得できない、又その獲得した喜びを喪失する時人はいかに悶え苦しみ、七転八倒することか。その喜怒哀楽が人生という解釈も成り立つ。しかし自分がいかにのたうち回っている時でさえ、季節は巡り、時は休むこともなく淡々と何事もないかのように推移しているのだ。本当に人間として成熟いくとは、人間社会の背後にある絶対世界に目を向け、徐々に我という意識を薄め外物に心を開いていくことではないか?
その先に、小鳥のさえずりにさえ喜びに心震え万物と一体化した心安らかの人生が待っているのではないか?と僕は思う。そんなことを友の死は考えさせてくれた。
カエデの木が枯れ葉を友の墓石の上にまき散らす。友の深い瞑想が破られないことを願う。