辺り一面咲き乱れる菜の花畑を戯れながら飛び回る蝶々の群れ、生の絶頂を誇示するかのように胸弾ませ笑い興じる少女にも夜が来る。さっきまで飛んでいた蝶々も死に、笑いこけていた少女たちの睫毛の下に一瞬の暗い影が落ちる。 十二歳前後の思春期頃から始まるという、この避けがたき悠久なる影。ある人は恋、性の陶酔の中に、ある人は富、権力の充足の中に、ある人は芸術、宗教を通じて自己の永遠化を図ろうという試みの中に逃げ込む。だが有史以来文化の中枢を貫いてきたこの実存の問題を真剣に悩み、苦しむ事により人は全ての束縛から解放され、時空を超えた同じ人間としての土壌に立ち純粋な個としての人生を歩みだす。そこに真の人と人を結びつける心が芽生える。過去の先人たちはこの不変的問題を考え抜き笑い、逍遥する知恵を残してくれた。私はこの問題を皆様と無心になって語り合いたいと思う。
2013年12月9日月曜日
究極の土壇場で心を支えてくれるものは?・・・人間?哲学?仏教?
取りとめない不安感が再び…
同世代の友が亡くなった。長年、人生の意義、死、愛等の青臭いことを語り合った友だ。そんな友も亡くなるのだ。死はもはや物思いに耽った若き詩人のロマンチズムの対象ではなく生々しい現実となった。それはある観点から物事見るなら、青春時代若き感性が生命体の有限性を初めて強く自覚し、純粋に死の恐怖と不安に心定まらぬ夜な夜なを送ったあの取りとめなき不安感が、青年、壮年期の様々な人生の甘味、辛酸を味わい尽くした後、再び戻ってきたということかもしれない。今度は、憂愁に沈み果てた心の中にも微かに宿っていた未知なる人生に対する淡いロマンもない。色褪せていく人生模様。欲望によって覆われていた喜怒哀楽を演じていた人生舞台が無常というダイヤモンド針によって脆くも弾けちり、包み隠しない剥き出しの人生そのものが露呈して行く。「どこかに隠れ場所が?捕まるところが?」と、心の拠り所を求めて必死の探索が始まる。しかし青々とした葉に覆われていた森も、木はすべて枯れ果て無常の風が荒野と化した森の上を寒々しく吹きずさむ。不安な日々の始まりだ。
100%確実な死の実感
僕は今まで生死に関連した本はかなり読み、一応その事は深く考えてきたつもりでいた。しかし
今回の友の死の知らせに僕は狼狽した。若き頃の「まだ先の話」と、多分に観念的だあった死へ
の思いとごく近い将来100%の確実性を持って起こりうるという死の実感とは大きな隔たりがあった。知識は死地に追い詰められた極限状態の状況では人の心の支えにはならないと改めて感じた。人間の理性は万物を全て飲込み押し流していく大自然の摂理、生成の変化の前では余りに無力だ。この絶対事実を強く意識していたからこそ、若き頃様々な宗教に首を突っ込んでみた。そしてその後もその生死の問題を中核として生きてきたつもりでいた。が、動揺した。求道の徹底度が足りなかったということだろう。又、妥協と安逸を基軸とした人間存在の暗部には本能的に目をそむけた危機感の失せた善良なる市民生活にドップリ浸かり過ぎていたという事であろう。
原始の叫び
しかし月光に向かって遠吠えするオオカミの原始の叫びが生命体の中核に戻ってきた。近代の禅の中興の祖といわれる白隠が、幼少時代海辺の上を流れる浮雲を見て無常を感じたあの純粋な時空感の無限を感じた時の取りとめなき不安感だ。その味は苦く決して心楽しませてくれる物ではないが全てが真実に満ち清潔だ。「いよいよ来るべきものが来たか!」と、心は身構える。今回は先延ばしにはできない。今後どのような気持ちで人生を送れるのか?ここで決定するといっても過言ではない。快活な生活を送りながらも、加齢と共に色濃くなっていく死の影に心の奥底で不安を抱きながらも従来通りの現生的喜びに依存して、その不安を払拭しようと努める日々を送るのか?それとも、笑い興じている真っ只中にも心の内に忍び込んでくるその空しさの感情に耐えられず、意を決して生死の問題に真向して対峙し絶対的心の拠り所を掴みとり覚悟して今後の人生を送るのか?どちらの選択をするにせよ、その決定の持つ意味は重い。
崖っぷちで心を支えてくれるものとは?
その結果は、死の直前の心の状態に如実に表れることは確実だ。そしてその死は遠い将来の話ではない。いつでも起こりうる問題なのだ。もう一刻の猶予も許されない。ギロチンが今にも落ちようとしている状況なのだ。絶体絶命だ。こんな時と言える。自分が崖っぷちに立たされた時、本当に心に最後の一瞬まで寄り添い見捨てずに支え続てくれるものは何か?と分かるのは。それは人間には求められない。非力な人間は、救いのない絶望のどん底にいる人間の心に対して絶対的確信を持って「心配しなくていい」と言って心安らかな微笑を送ることはできない。それは理を超えた迷える子羊を、大きく広げた腕で抱きしめてくれる大安心を約束してくれる絶対世界からの救いの手なのだ。
心落ち着かせてくれた一冊の本
その様な事を考えていた時だ。「歎異抄」という衝撃的な一冊の本に出会ったのは。「善人さえ浄土に生まれる。まして悪人が浄土に生まれないわけがない。」と、その本は他の全ての宗教と逆のことを言っているのだ。又、その本は「煩悩に塗れた、浅ましき我々人間がどんな修業、善行を行ったとしても迷いを離れた絶対的大安心に達することはできない。唯、救済者阿弥陀様に「「南無阿弥陀仏」と連呼し助けを求めなさい。一切自力行為は放棄し、無心にお頼み申せば誰でも分け隔てなく救済してくださる。」とも。この逆説に満ち満ちた薄い本を一字一句吟味しながら一気に読み上げた。そして思った。この教えは人間を知りぬいた上に書かれている。一部は受け入れ難く反発を覚えるが、全体として宗教書特有の嘘臭さがない。何よりも、不思議なことは僕の心が落ち着き、友の死以来心を覆っていた灰色の雲が薄らいだような気がしたことだ。又、この教えはかつて経験した立ち上がる気力のない程の気だるさに襲われ、弱弱しい自分の呼吸の音を友とし無力に床に伏している様な絶望的状況に陥った時、心から離れず支え続けてくれるでは?とさえ思わせたことだ。この僕の心の内に起こったことは、若い時宗教に対し一定の距離は保っていた人たちが、晩年になって宗教に改心することと関係しているかもしれない。それは一人何の鎧もなく大自然に没していくことへの実存的不安感、人間的弱さ故と解釈しうるかもしれない。しかしここで大事なことは僕の心がかなり晴れがましくなったことだ。
心軽やかにしてくれた本の中身
そうした心静まった穏やかな気持ちで外界を眺めると、全てが愛おしいものに見えてくる。猫が大あくびをしている。枯れ葉が次から次へと地面に落ちていく。なんと心軽やかな気持ちだ。この気持ちはかつて禅堂で真冬に座禅をしていた時感じた心の状態と似ている様な気がする。体得を目指した自力を標榜する禅。信心に全面依存した他力を標榜する浄土宗。対極にあるこの二つの教えが何故同じような気持ちにさせるのか?この問いに対するぼくの解釈は、詰まる所はすべての宗教の最終的に目指すものは(無心)に尽きるということだ。この観点から僕が関わった宗教を考えてみると、全ての宗教はこの点で一致し、さらには狭い競技の解釈を超えてお互いに共鳴できる土壌さえ生まれてくる様に思われる。僕は長年、禅との関わりをもって生きてきたが、不思議なことに禅の対極と思われていた「他力」の思想の本質を表した「歎異抄」と出会ったことで今まで以上に禅が肉体を通してより深く理解し始めたと感じる。人はただこの世に生まれ死んでいく。その孤独の人生を歩んでいくためには、大きな腕に抱かれているという意識があったほうが心安らかな一生を送れることは確かだ。その意識にならない意識を生み出してくれるのが無心、つまり自分が生まれ出た故郷に全てを委ねるということだと僕は理解する。
万物と一体化した心安らかな人生
人はこの世に生を受けて以来成長と共に自我が成長し、その自我を自分の人生の中核に据え人間社会の中で数多の喜びを覚える。しかしその喜びを獲得できない、又その獲得した喜びを喪失する時人はいかに悶え苦しみ、七転八倒することか。その喜怒哀楽が人生という解釈も成り立つ。しかし自分がいかにのたうち回っている時でさえ、季節は巡り、時は休むこともなく淡々と何事もないかのように推移しているのだ。本当に人間として成熟いくとは、人間社会の背後にある絶対世界に目を向け、徐々に我という意識を薄め外物に心を開いていくことではないか?
その先に、小鳥のさえずりにさえ喜びに心震え万物と一体化した心安らかの人生が待っているのではないか?と僕は思う。そんなことを友の死は考えさせてくれた。
カエデの木が枯れ葉を友の墓石の上にまき散らす。友の深い瞑想が破られないことを願う。
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