Zen surrounded by all green
Green, Green & Green as far as I can see. In the
middle of such a steppe I sit cross-legged , inhaling air all around me into the whole part of
my body quietly. What actually comes into my body may be only air but I feel as if all the surrounding green also came into my body at the same time.
The fresh and pure air which came into my body seems to contain dew from the night before and to be filled with indescribable purity and transparency.
The air gradually spreads everywhere in my body.
And then I breathe out the air quietly and slowly, taking time.
When I repeat the act endlessly , I feel as if I was liberated from all the conception of me created by
my brain and that my real life itself started to breathe in and out voluntarily.
The reality of all the earthly things
The realty of all earthly things is transiency. Nothing can remain forever. To be conscious of the
absolute truth can bring unbearable spiritual pain.
So we toss about in excessive pain in order to immortalize our existence. But the curtain has been drawn and our reasoning-power has seen the
bare truth. Childish logic is not persuasive enough.
The goal of our relative meaning of life comes to end when it reaches there and never fills our mind
with its meaning and the spiritual joy all through
our life. Soon the time comes when we have to face our existential anxiety, namely aging and death. Then is there no way to fill our mind with
everlasting spiritual joy? YES, THERE IS!
Bodily understanding is the only way
It comes only when we throw our whole existence
into the absolute truth of transiency and let go of our hero or heroine called me. Then peace comes into our mind quietly like when we sit in the middle of steppe even if it may not last long.
It may be the ultimate direction Zen points out.
Through such a life we may be able to live our true
life itself. Recently I think this way.
Such a way of life can never be attained intellectually. In fact how unreliable intellectual
understanding may be in actual situations and
never save our real troubled mind. Bodily understanding ! This is the only way to fill the gap
between the fence of our consciousness and the
Reality running right behind our consciousness.
Daily life can be sometimes be monotonous. But
our daily life is the very ground for our every second. We engage ourselves with daily things
simply and selflessly. The difficulty we encounter
in our life gives us a good chance to create fertilizer for bodily understanding. Let's jump into
our transient life as a transient human being as if
we sat in the middle of steppe.
辺り一面咲き乱れる菜の花畑を戯れながら飛び回る蝶々の群れ、生の絶頂を誇示するかのように胸弾ませ笑い興じる少女にも夜が来る。さっきまで飛んでいた蝶々も死に、笑いこけていた少女たちの睫毛の下に一瞬の暗い影が落ちる。 十二歳前後の思春期頃から始まるという、この避けがたき悠久なる影。ある人は恋、性の陶酔の中に、ある人は富、権力の充足の中に、ある人は芸術、宗教を通じて自己の永遠化を図ろうという試みの中に逃げ込む。だが有史以来文化の中枢を貫いてきたこの実存の問題を真剣に悩み、苦しむ事により人は全ての束縛から解放され、時空を超えた同じ人間としての土壌に立ち純粋な個としての人生を歩みだす。そこに真の人と人を結びつける心が芽生える。過去の先人たちはこの不変的問題を考え抜き笑い、逍遥する知恵を残してくれた。私はこの問題を皆様と無心になって語り合いたいと思う。
2017年9月24日日曜日
大草原のど真ん中で坐禅
大草原での座禅
見渡す限りGreen,Green, Green の大草原のど真ん中で結跏趺坐をし、静かに胸いっぱい空気を吸い込む。僕の胸の中に入ってくる物は唯の空気だが辺り一面の草原さえ同時に
入ってくるようにさえ感じる。体内に流入してきた新鮮な空気。それは前夜の夜露を含み清澄極まりなくみずみずしい透明感に溢れている。その空気は僕の体内の奥深くまで隅々にまで渡って行く。そして静かに長い時間をかけてその空気を
体内から吐き出す。そうした行為を繰り返し繰り返し行っていると僕の脳が作り出したあるべき姿、苦悩等の全ての産物
から解放され、ただ僕の生命のみが呼吸している様にさえ感じてくる。
万物の実相
万物の実相は無常だ。何一つとして永遠に留まるものはない。その絶対的真理を意識することは耐え難き苦痛をもたらす。だから僕たちは自己の不朽化を求め七転八倒する。しかしカーテンは既に引かれ理性はむき出しの存在の実相を見てしまったのだ。子供だましの幼稚な論理は説得力不足だ。相対的人生の目標は達成してしまったらそこで終わりだ。一生涯にわたり僕たちの心に意義と充実を与えることはできない。いずれ実存的不安感、老いと死という究極の問題
に立ち向かわねばならない。では一生涯にわたり僕たちの心に充実と平安を与える術はないのか?と、僕は自問する。
ある!
体得こそ唯一の
それは無常という絶対真理の中に自己の全存在を投げだし
僕という主人公を手放した時、大草原で経験したときの様な
平安があると
。その方向こそ禅が究極的に指し示す方向で嘘偽りのない生命そのものを生きることではないか?と最近僕は感じている。それは知的理解では修得できない。知的理解は実際の状況ではなんと弱弱しく頼りにならないことか?体得。これが唯一の僕と大草原という対象の溝を埋め生命の極相を実現できる道ではないか?日々の生活はともすればウンザリするほど単調になる。しかしそこが僕たちの一瞬一瞬の地盤だ。当たり前の事を当たり前の事として行う。それも意欲的に淡々と。人生の困難は体得の最高の肥やしだ。飛び込んでいこう。この無上の世の中に。無常人として。大草原とど真ん中で坐禅をしているが如くに。
見渡す限りGreen,Green, Green の大草原のど真ん中で結跏趺坐をし、静かに胸いっぱい空気を吸い込む。僕の胸の中に入ってくる物は唯の空気だが辺り一面の草原さえ同時に
入ってくるようにさえ感じる。体内に流入してきた新鮮な空気。それは前夜の夜露を含み清澄極まりなくみずみずしい透明感に溢れている。その空気は僕の体内の奥深くまで隅々にまで渡って行く。そして静かに長い時間をかけてその空気を
体内から吐き出す。そうした行為を繰り返し繰り返し行っていると僕の脳が作り出したあるべき姿、苦悩等の全ての産物
から解放され、ただ僕の生命のみが呼吸している様にさえ感じてくる。
万物の実相
万物の実相は無常だ。何一つとして永遠に留まるものはない。その絶対的真理を意識することは耐え難き苦痛をもたらす。だから僕たちは自己の不朽化を求め七転八倒する。しかしカーテンは既に引かれ理性はむき出しの存在の実相を見てしまったのだ。子供だましの幼稚な論理は説得力不足だ。相対的人生の目標は達成してしまったらそこで終わりだ。一生涯にわたり僕たちの心に意義と充実を与えることはできない。いずれ実存的不安感、老いと死という究極の問題
に立ち向かわねばならない。では一生涯にわたり僕たちの心に充実と平安を与える術はないのか?と、僕は自問する。
ある!
体得こそ唯一の
それは無常という絶対真理の中に自己の全存在を投げだし
僕という主人公を手放した時、大草原で経験したときの様な
平安があると
。その方向こそ禅が究極的に指し示す方向で嘘偽りのない生命そのものを生きることではないか?と最近僕は感じている。それは知的理解では修得できない。知的理解は実際の状況ではなんと弱弱しく頼りにならないことか?体得。これが唯一の僕と大草原という対象の溝を埋め生命の極相を実現できる道ではないか?日々の生活はともすればウンザリするほど単調になる。しかしそこが僕たちの一瞬一瞬の地盤だ。当たり前の事を当たり前の事として行う。それも意欲的に淡々と。人生の困難は体得の最高の肥やしだ。飛び込んでいこう。この無上の世の中に。無常人として。大草原とど真ん中で坐禅をしているが如くに。
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