2018年1月21日日曜日

孤独な詩人&禅僧 ”良寛”

良寛の調べ
誰でも各自,生誕時与えられた固有の調べという物がある。しかし生涯一貫して自己の純粋な調べと共に生きその調べを完成させたものはそう多くはない。良寛像を見る。そこには良寛の調べの完成されたすべての具現がある。寂静、無心、諦念、無垢、清澄、謙虚、枯淡、内なる微笑、童心、全てが秋の枯葉舞うある日の夕暮巡錫を持ち、頭陀袋を下げ、夜道を山中幽居の住まいへとトボトボと歩いていく良寛の表出がある。
晩年托鉢中一老人問う、「何故、山峰に住む?」良寛答える。「そなた何故巷に住む?」この問答に良寛の調べの本質
がある。何故名主橘屋の長男と言う恵まれた社会的地位、富
を捨ててまで孤貧な生活を強いる禅僧の道を歩み出したかの理由の答えも。
何故世俗を捨てたか?
それは生涯失せることのなかったある晴れた日、晴着を身に纏い声高らかに戯れ興じる乙女たちの艶やかさに反応する
繊細多感なる詩人としての感性、そして世俗的欲望の欠如から生まれる無常感の性向にあったと僕は見る。そうしたタイプの人間は関心の対象は物より心に向けられ世間では浮いてしまう存在のきらいがあり、極端なケースは生活落伍者と言う烙印を押されてしまうのが常である。故に、人一倍孤独の深さは大きく絶対的心の支柱への渇望は尋常ではなく、一時の心の平安を求めて悪の道へと足を踏み外す者もいる。「人は死ぬ。なのに人は何故あのように笑っていられるのだろうか?」との問いが、午前の全てを射抜いてしまう明徹なる陽光の様な乾いた心に付着している。堅牢なる心の地盤を見出し生を歩み出すか?それとも生の苦しみから逃げるために欲望の中に逃げ込み心荒んだ一生を送るか?そのような人たちにとって健全なる市民生活の道は絶たれている。生か死か?事は逼迫している。そして良寛の選んだ道は物質的追及より精神的平安を優先したわけである。つまり良寛は山峰での隠棲的生き方のみが生き残る選択だったという事である。
何故禅を?
良寛は18歳の時得度し出家した。その選択した寺が禅寺であった事が良寛その人を物語り後の良寛の調べの展開に特別な意味を見出す。禅は他の仏教宗派と比較し徹底的に心の内を見つめることに重点を置く宗派である。よって衆生救済に力点を置く日蓮宗、浄土宗等と比べ個人主義者に向いている宗派と言われる所以である。良寛は組織の中で抜きんでた指導力を発揮するタイプではなく、むしろ内省的単独者である。良寛像に見られる下がった肩、下を向いた目線がそれを物語る。現在の岡山県の円通寺の10数年に及ぶ修行は熾烈極まるものであったろう。しかし良寛のようなタイプは人間の組織の中では脆いものの個としての耐性力は一般的に強いものを有しているものである。又、良寛は過酷な修業の苦しみの中に真の生の充実感の喜びを知り、日々の修行の積み重ねの中に後の人生をを支える固い心の地盤が築かれていくのを感じ取っていたとも言えるであろう。無常なる世の中にも肯定的な生き方がある。その肉体の経験を通した実感。そこに良寛固有の調べの発展がある。
良寛禅とは?
良寛は決して他の禅僧に見られる射抜くような鋭い眼光、そこにいるだけで威圧せしめる堂々とした風貌、人を食った挙動そして高笑いとは無縁の存在であった。枯葉舞う風に吹かれながら弱弱しい体を引きずりながら郷土越後の風光を歩き回る無為徒食の哀れな一僧侶。「山陰の岩間をつたう苔水の
棲家に我住みわたるかな。」の子供たちからあの変わった坊さんと称される存在であった。「雨の日はオロオロ歩きみんなにでくの坊と呼ばれ・・・」そうした全ての己を捨て去り切った存在であり続けること。それがもしかしたら禅の修行
そして聖胎長養の為の全国各地の行脚を恥と知りつつ乞食坊主の如く郷里に終の棲家を求めたのと同様に自分に課した試練であったかもしれない。もちろんそうした生活の中にも禅が中心にあった。そこに他の禅僧には一人として見られない
良寛禅があると僕は思う。人は人並み外れた天賦の才そして
精神力を有する天才たちが人知絶する修行の末、人間の理知を超えた霊感的真理を掴んだ道元的禅に禅の典型を見出すが寂し夜は琴を奏で、文を書き、一人ひっそりと孤絶に越後の風光に溶け込んだ良寛禅も又ある禅の形と言えよう。もしかしたら一般の人々にとっては人間的ひ弱さを持つ良寛禅に一人寂しい時より慰められるのかもしれない。































0 件のコメント:

コメントを投稿