2018年6月10日日曜日

僕を救った究極の仏教の行

The English version of the following blog will follow soon.

三角形ノイローゼ
僕は今、世にも稀有な病気を患っている。おそらく古今東西人類誕生以来僕の様な得体のしれない病気を患った人間は存在しなかったのではないか?と変な自信を持つ程の稀有な病気だ。実は一年ほど前から視界に入る全ての対象物から三角形の形状の対象物だけが異常に気になってしかたがないという病気で「あそこに三角形の屋根が!」「パソコンの表示が三角形の形をしている。」「カーテンのデザインの中に三角形が!」といった具合に、三角形の形状の対象物を見る度に胸はドキドキし、最近では目を開けていること自体が怖くて仕方がない有様だ。「こんな状態で今後生きていけない。」と根本の解決策として「常時眼帯でもしようか」と考える程、日に日に心はへとへとに疲れ始め追い詰められている自分を感じていた。
衝撃的本との出会い
そんな心の状態の時だ。一冊の頭をガツンと殴られる様な衝撃的本に出会ったのは。それは仏教の修行の中で最も過酷と
言われている往復48㎞を毎日千日かけて踏破する行の心の内を記した本であった。39度の高熱、1時間毎に襲ってくる下痢、打撲で2倍も膨れ上がった足、どんな肉体的状態に陥ろうとも行者は暴風雨の中でも歩かねばならない。中止する時は常時携行している短刀で自害をしなければならない時だ。そのすざましい修業、自己との戦いを読み進むにつれて
「なんと自分は些細なことで追い込まれているのだ!」と自己は恥じ始めると同時に何か理屈を超えた破壊的ともいえる生命力の根源の様なものが心の最奥部からもたげて来るのを感じた。

極限状態を超えて歩く
高熱、一歩足を進める毎に脳天に響く頭痛、足の激痛を緩和するために服用した薬が起こした腹痛、そうした極限状態でもその規則故に医師にも見てもらうことなく「俺はただ歩くしかないのだ。」と48㎞の山道を歩き続ける行者の気迫は
語気迫る。


命がけの三種類の行
その行者の名前は塩沼亮潤と言い、彼は死をかけた三種類の行を成し遂げた僧侶だ。本当に人は追い詰められた時優しい甘言は芯から立ち直らせてはくれない。「もう気取ってなんかいられない。」と、「ちきしょう!負けてたまるか!」といった生命体としての剥き出しの闘争本能、そして俺はそんな弱い人間ではない。」と言う究極の自己尊厳が決定的瞬間に支えになるのだ。とこの本は改めて思い起こしてくれる。
まずは塩沼僧侶が最初に成し遂げた百日回峰行について救済本としての観点から記したいと思います。

              百日回峰行

弱気を吹き飛ばしてくれる気迫
袋小路に陥り、八方塞がり出口なしの状態が長い間続くと自ずと弱気の気持ちが出てくる。そんな時「どんな状態でも歩き続けねばならないのだ。それが出来ない時腹を切るしかないんだ。右、左、右、左…」と言い切るときの行者の覚悟した言葉は心に垂れこみはじめた弱気の心を吹き飛ばしてくれるに十分なものがある。回峰行開始からわずか3日目に右膝に痛みが・・・・痛い方の足をかばう様に歩いていると反対側の足にも痛みが・・・・両足は曲がらず足は棒の様に・・・・階段を歩くにも後ろ向きで這うようにして・・・・今度は歯の痛みが(一歩、歩くたびに激痛が脳天に響く)・・・・・ある時余りの激痛に気絶する・・・・今度は痛み止め多量服用の為胃痛が・・・・こうした極限状態の中でも行者は歩き続ける。そんな行者の姿を読み進むにつれてに僕の心の中で武者震いが起こる。「よっし!俺だって!」

ただひたすら歩くの100日間
この仏教の行は百日間どんな天候でも黙々と歩き続ける行で
前半の50日と後半の50日に分けられる。最初の50日は
片道24㎞の山道を歩き頂上の宿坊で一泊し翌日同じ道を引き返してくる。後半の50日は山頂の宿坊に泊まることなく
その日に帰ってくる。つまり前半はウォーミング・アップコー
スで後半は本番コースと位置付けられている様だが、健脚の人でも前半の24㎞の山道を歩ききることは至難の業であろう。それでは行者の気持ちに成り切って同コースを辿ってみよう。
起床してから出発までの行

1 深夜11:25pm行者       は起床する。蓄積された       極度の疲労の為神経は高       ぶりちょっとした物音に       も目を覚ましてしまうら       しい。平均睡眠時間は4       時間前後と聞く。
2 近くの滝のある場所に行き、経を唱えながら滝行を行う
  。外気4度c前後、行者の体から冷水が飛び散る。
  (39度を超える高熱の時でもこの滝行は義務ずけられ
   ている。)
3 小さなお結びを2ケ頬張り朝食とする。
4 山伏の装束を身に着ける。
5 深夜12:30出発。提灯の明かりを頼りに歩き始める
  。携行品: オニギリ2ケ、水の入った水筒、短刀、杖
       身の傘、ペンとメモ等。

深山幽谷を歩く・そして行者は

6 途中118か所の神社、 祠の前で経を唱える。
7 5:00am 辺りは白み始める。朝食(お結び2ケ)
  食べる。
8 標高1500mを超える。深山幽谷の世界が広がる。
9 8:30am 頂上到着。宿坊で朝食。
10 帰宅後洗濯等を行う。
11 夕食を取る
12 その日の感慨を日誌に書きとめる
13 7:00am就寝

以上が大雑把な行者の一日の行動であるが、この間行者は一貫して気丈夫に振舞う事を要求されている。それは何よりも
自分のために行っているという自覚と、そのように毅然と行に取り組んでいないと千日回峰行の許可が得られないという現実的理由からでもある。

 一切の功徳は期待せず

行者は山道歩行中さまざまな危険に遭遇する。マムシ、クマ、イノシシ等がそれに当たり、又一歩踏み外せば・・・という難所も細心の注意を払い歩かねばならない。そこまでの
覚悟、苦行を受け入れ何とか本願を成就してもそこで具体的功徳を期待していたらその努力は無に帰するという。その理由は?
行者の根本的問い

「世俗の喜びは決して自分の心を完全に満たすことはないであろう。」と言う深い絶望感の伴った、この世における我々の真の人生の意義の問いかけは我々の思考の根底から覆す。
人生にある目標を持つ。その目標に達するまで人は充実感を感じながら生きることは可能であろう。しかしその目標に心委ねて生涯にわたり人は充実した人生を送れるのであろうか?世は移ろい自分も老いる。するとかつてあんなに輝いていた物が子供じみた色褪せた物に変化する。その対象物が変化したのではなく自分が変化したのだ。では色褪せることなく生涯にわたり自分の絶対的拠り所は存在するのか?ここに行者の根源的問いがある。


絶望状態から生まれる至福の時

塩沼僧侶は語る、「山中ある時、精神的にも肉体的にも追い詰められ、(もう自分の人生もこれまでか?)と思った時、幼少時代からこれまでの思い出が走馬灯のように脳に流れてきた。その時暴風雨に打たれながらお結びを食べている自分がたまらなく愛おしく、心の内から込み上げてくる形容しがたい至福の感情に圧倒された。」彼はその時理性を超えた真の世界の領域に入り込んだのかもしれない。おそらく彼は時空間を超えた大自然の懐に包まれたいう感情を経験していたのかも知れない。
血肉で体得した「空」と言う境地

学者はその境地を「空」「無心」と呼ぶかもしれない。しかし塩沼僧侶がそれを語るとき学者とは異なり何と平易な言葉を使いながら万物が瑞々しく生き生きと我々の心の中に訴えかけるではないか?それはその境地を体得したもののみが語ることの出来る自意識と対象物の間にあるミクロの被膜を突き破った静かな悠久の時の流れる真実在の世界と言えるかもしれない。僕は思う。そこに時代を超えた人生の究極の世界があると。一歩でも近ずきたいものである。

次回のブログでは足かけ9年にも及ぶ千日回峰行について書
きたいと思います。彼の本の中心である。
  
  








                     












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