2012年4月14日土曜日

人は死ぬのになぜ笑っていらるのだろうか?

人は死ぬのに何故笑っていられるのだろうか? 
生命体の終着点は例外なく死だ。なのに人は何故あのように笑っていられるのだろうか?と、物心ついた時あなたは思ったことはないだろうか?又ある夏の夜だだ広い田舎畑の真ん中で、ふっと夜空を見上げた時、その漆黒の宇宙に飲み干されるような恐怖心を覚え、身体中戦慄が走る感覚を経験したことはないだろうか?又いつもの様に仕事場から帰宅し、自宅で一人いる時理由もなく取り留めない不安が心のうちに広がり、何気なく送っていた日々の生活が急に色褪せ、順調に回転していた歯車が潤滑油が切れ軋んでいくように感じたことはないだろうか?又長年一緒にいる恋人のふとした表情、言葉の抑揚の中、愛の交歓をした後の相手のいつもの自分の髪を撫でる仕草の中に、何か乾いた倦怠に似た感情を覚えたことはないだろうか?
又子育てを終え、うなだれた青春人生の秋を感じかつて生き生きと闊歩していた自分を取り巻く舞台装置が急によそよそしく自分を離れて存在し始めた感覚を経験したことはないだろうか?又晩秋の夜、色々なことが頭に浮かんできて眠れずベッドに横たわっている時、時計の針の音が気になり想像が想像を膨らませ「太陽系が銀河系を丸一周した二億年後我々はどうなっているのだろうか?」から始まり時空間の無限性という哲学的ブラック・ホールの問いに入り込み宇宙空間に投げ出され、何処にしがみ付く所もなく深淵に突き落とされ、救いを求めて絶叫を繰り返すもののいくら叫ぼうと声が出ないというような経験をしたことはないだろうか?
  そうした経験のある者はすべて私の友だ。真に自己の人生を歩んだ者は時代を問わずそこが人生の出発の原点となっている。仏教では最終到達点の大安心を出発点として無常心を挙げている。いわばそうした内的経験は大自然からあずかり知れぬこの世に放り出され大海の中の泡粒の様な自己の存在の意義を問う人生一大事の問題といえよう。小さな子供の素朴の問いの中に賢
者の知恵の種子が宿っている。多くの者は「何故生きるのか?」といった根本的問の前に生を歩みだす。飢餓状態の様な下では生命維持の本能が先立つが、食に事欠くことのないような現在の日本社会ではこの問題が余りにないがしろにされている嫌いがある。whyの前にhowの人生観が老若問わずして個々の人々の多種多様の問題の根っこにあるように思えるのだが?。この問いに真摯に向かい合い、時には喘ぎ、慟哭し、胸引き裂かる孤独感に苛まれる所に時空感を超えた精神的勇者との出会いがあり、人生のほんの小さな変化、出来事にも深い味わいを感じる含蓄ある人生が待っていると僕は思う。
次回では「人は何かに酔わずして人生を送ることは可能か?」とのタイトルの下に皆さんと話し合いたいと思います。



   

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