「今幸福?」の問いに一瞬ためらい「まあ、まあ」と答えたものの、その直後心のうちで「自分は本当に幸せ?」と自問した経験はないかな?我々が自己の外側の対象物と接する時全面的に依存している「私」と称する主体。その主体は実は自分の幸福という感情さえも、しっかりと掴むことのできない程実体無き物という意識に愕然とし、「自分の存在がなんなのか分からずに震えている・・・」と絶叫する尾崎豊の気持を共有したことはないかな?今日は深夜一人街路に響く寂寥なる靴音に胸締め付けられる経験をしたことのあるあなたと、先人たちがいかにこの癒されることのない実存の苦しみもがき悲痛の叫びをあげ、ある者は逃避という方法で、ある者は明晰の思考で立ち向かい生きようとしたかという心の軌跡について一緒に考えていきたいと思う。
神が存在しないなら全てが許される
ニーチェは言った「神が存在しないなら全てが許される。」ヨーロッパの近代史は彼のこの言葉と共
幕を開けた。その後遺症は今も直、我々の時代に人々の思考の源に影響を及ぼしている。「何故

捨等という無償の行為をするだろうか?これは日本の様な宗教色の薄い国で幾分異なるが、やはり日本でさえ神、仏が習俗化したといえ、恐れ、祟りという形で人々の心、考えに過去においては無意識なる影響を及ぼしていたことは否定できない。それ程まで人々の心に絶大な影響を及ぼしていた神の否定、絶対的な心の拠り所、いつどんな時でも赤子のように暖かく心に包んでくれた母性愛。その喪失は今日の我々の想像を絶するものがある。
詩人が見出した平安
フランスの詩人ランボーは「酔え、それが唯一無二の問題だ」「この世の外ならどこえでも」「愛し合う二人の死」といった幾分退廃的詩をもって一時の陶酔の中に忘却という方法で癒しを求めた。又彼は南国の未開人に思いを馳せ干からびた精気の失せた心を単純さの中に逃れようとした。が、彼の月光の青白い光に慣れ親しんだ病んだ心は、我々現代人が大自然の下では無力な様に太陽の光を全身に受けるには脆弱になりすぎていた。そんな彼の寄る辺なき迷える子羊の心が一時にせよ平安を見出したのは視覚、音、触、香、味、といった五感の調和による詩人としての想像力の中にのみあった。彼は救済を一時の陶酔、忘却の中に求めた。彼の詩人としての感性は知っていた。酔わずには狂人になるということを。今我々は形を変え、ネット社会に代表されるように忙しくすることによって自己を直面することを忌避している。そこには自己の内側を覗き込むことによって自己が瓦解するのを恐れる自己防衛本能が働く。
太陽の真実

快楽主義者エピキュロスの帰結
しかし、しかしと僕はここで問う?一刹那を生きる卑小なる人間が暗黒なる大宇宙を前にして一人トボトボと生きていける程強靭なる精神を持ち合わせているのだろうか?ぼくには率直に言って自信がない。かといって逃げられないことはわっかている。一度知ってしまった者の運命だ。この血を引くような孤独なる葛藤、煩悶。その中で僕が見出した活路を紹介させと貰うなら、前述の二人が推し進めた精神的探究の屋台骨である理性、論理、合理主義的思考を捨て去るということであった。このことに関しては僕の飼い猫のキッコから多くのことを学んだと思う。猫の日常生活の行動を
規制しているのは一貫性、秩序、法則性とは全く無縁だ。彼らにはむしろ有限なる人間の脳の産物から解放された混沌、無秩序、野生の論理といった大自然の摂理のようなものが働いているように思える。自我という鎧を脱ぎ捨て大自然の懐に身を預ける。換言するなら人為から無為への移行。すると心の重荷がすーと軽くなった気がしたのを覚えている。ここであなたに尋ねたい。「自分の幸福って何?」という問いを。前述の二人は終局のところ幸福を求めていたのだと思う。この我々人生最大の関心事「幸福とは何か?」の問いに古代ギリシャの哲学者エピキュロスの帰結をみなさんと一緒に考えることにより今回の語らいを閉じたいと思う。
「善とは快楽であるが、真の快楽とは放埓の欲望から解放された平静な心にある。」
0 件のコメント:
コメントを投稿