2012年4月24日火曜日

人は何かに酔わずして発狂せずに人生を送れるか?

自分って何?
「今幸福?」の問いに一瞬ためらい「まあ、まあ」と答えたものの、その直後心のうちで「自分は本当に幸せ?」と自問した経験はないかな?我々が自己の外側の対象物と接する時全面的に依存している「私」と称する主体。その主体は実は自分の幸福という感情さえも、しっかりと掴むことのできない程実体無き物という意識に愕然とし、「自分の存在がなんなのか分からずに震えている・・・」と絶叫する尾崎豊の気持を共有したことはないかな?今日は深夜一人街路に響く寂寥なる靴音に胸締め付けられる経験をしたことのあるあなたと、先人たちがいかにこの癒されることのない実存の苦しみもがき悲痛の叫びをあげ、ある者は逃避という方法で、ある者は明晰の思考で立ち向かい生きようとしたかという心の軌跡について一緒に考えていきたいと思う。
神が存在しないなら全てが許される
ニーチェは言った「神が存在しないなら全てが許される。」ヨーロッパの近代史は彼のこの言葉と共
幕を開けた。その後遺症は今も直、我々の時代に人々の思考の源に影響を及ぼしている。「何故
人を殺してはいけないのか?」と今日の若者は問う?その問いの源はニーチェの言葉の中にある。それまで人間行動の全ての価値基準の根源は欧米社会ではキリスト教にあった。当時彼らは日々の取るに足らない些細な行為、その一つ一つ永遠の価値の上に照らされていると考えていた。善行を積むと神の恩寵が確約される。しかしそんな絶対的価値観が崩れ、彼らの現世での行為と永遠との関係が断ち切れた。そして全ての比重は現世に置かれた。そのような状況で誰が喜
捨等という無償の行為をするだろうか?これは日本の様な宗教色の薄い国で幾分異なるが、やはり日本でさえ神、仏が習俗化したといえ、恐れ、祟りという形で人々の心、考えに過去においては無意識なる影響を及ぼしていたことは否定できない。それ程まで人々の心に絶大な影響を及ぼしていた神の否定、絶対的な心の拠り所、いつどんな時でも赤子のように暖かく心に包んでくれた母性愛。その喪失は今日の我々の想像を絶するものがある。
詩人が見出した平安
フランスの詩人ランボーは「酔え、それが唯一無二の問題だ」「この世の外ならどこえでも」「愛し合う二人の死」といった幾分退廃的詩をもって一時の陶酔の中に忘却という方法で癒しを求めた。又彼は南国の未開人に思いを馳せ干からびた精気の失せた心を単純さの中に逃れようとした。が、彼の月光の青白い光に慣れ親しんだ病んだ心は、我々現代人が大自然の下では無力な様に太陽の光を全身に受けるには脆弱になりすぎていた。そんな彼の寄る辺なき迷える子羊の心が一時にせよ平安を見出したのは視覚、音、触、香、味、といった五感の調和による詩人としての想像力の中にのみあった。彼は救済を一時の陶酔、忘却の中に求めた。彼の詩人としての感性は知っていた。酔わずには狂人になるということを。今我々は形を変え、ネット社会に代表されるように忙しくすることによって自己を直面することを忌避している。そこには自己の内側を覗き込むことによって自己が瓦解するのを恐れる自己防衛本能が働く。

太陽の真実
今度は「宇宙には果てはあるのか?」「ビッグ・バーンの前に時間は存在したのか?」こうした形而上学的問いに真摯に向かい合い、我々の世界の根拠性のなさ、不条理性を暴き出し無感動に全てを飲み干しては吐き出していく生成の変化に対し、妥協を知らない冷徹なる理性を持って向き合いそのギリギリの拮抗関係によって誇高き人間の生を歩みだすことを決意した勇者について語らいたいと思う。その勇者とはアルジェリア出身の作家カミユのことである。彼は処女作「異邦人」の中で主人公に「何故あなたはその人のこめかみに何発もの弾丸を撃ち込んだのか」の問いに「それは太陽のせいだ。」と言わせた。「神の死によって善悪の価値基準が失ってしまったら人間のモラル観など何の意味があろう。全ての行為は哲学という名の下で正当化されるものだ。自分が今本当に信じられ、確かなものはジリジリと照りつけている太陽の暑さ以外に何があろう。」と言うのが彼の言い分だ。他言するなら我々が慣習的に意義あるもの、尊重すべきもの、我々の行動を規定している物、それを冷徹な純粋理性の下に晒されたなら全てのものは根拠性を失うということだ。我々は遠い過去の文明が今ほとんど形跡すらとどめずに意味もなく風雨にのきざらしにされて放置されていることを知っている。同じ運命を持つ我々人間存在に一体どこに座標軸を求めたらよいというのだろうか?自分自身に対し本当に誠実でありたいとするならば、精神的苦痛を軽減してくれる数多の誘惑を断ち切り、自分の五感を通じて認識できる確かな事、自分の理性が嘘偽り抜きに信じられる事にのっとり生きるべきではないか?これがカミユの主張だ。彼は酔うことを拒否した。彼の人間存在の不条理さを受け入れての誇り高き生き方は称賛に値すると思う。
快楽主義者エピキュロスの帰結
しかし、しかしと僕はここで問う?一刹那を生きる卑小なる人間が暗黒なる大宇宙を前にして一人トボトボと生きていける程強靭なる精神を持ち合わせているのだろうか?ぼくには率直に言って自信がない。かといって逃げられないことはわっかている。一度知ってしまった者の運命だ。この血を引くような孤独なる葛藤、煩悶。その中で僕が見出した活路を紹介させと貰うなら、前述の二人が推し進めた精神的探究の屋台骨である理性、論理、合理主義的思考を捨て去るということであった。このことに関しては僕の飼い猫のキッコから多くのことを学んだと思う。猫の日常生活の行動を
規制しているのは一貫性、秩序、法則性とは全く無縁だ。彼らにはむしろ有限なる人間の脳の産物から解放された混沌、無秩序、野生の論理といった大自然の摂理のようなものが働いているように思える。自我という鎧を脱ぎ捨て大自然の懐に身を預ける。換言するなら人為から無為への移行。すると心の重荷がすーと軽くなった気がしたのを覚えている。ここであなたに尋ねたい。「自分の幸福って何?」という問いを。前述の二人は終局のところ幸福を求めていたのだと思う。この我々人生最大の関心事「幸福とは何か?」の問いに古代ギリシャの哲学者エピキュロスの帰結をみなさんと一緒に考えることにより今回の語らいを閉じたいと思う。
「善とは快楽であるが、真の快楽とは放埓の欲望から解放された平静な心にある。」


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