2012年5月21日月曜日

まどろみの生活からサムライの道へ ・・三島由紀夫の場合

まどろみの生活
「今日は気だるい。一日家でぶらぶらして過ごそう。」の思いと共にベッドから起きだし、午後は家でDVDを見たり、近隣の買い物に出かける。又ある時は「今日は久しぶりの晴れだ。よし、遠出でもしてみようか。」と近場の観光地へと足を延ばす。といった些事の繰り返しが日常生活と言えるだろう。そうした生活の中に喜怒哀楽の起伏があり、時として平穏なる生活を揺るがす暴風雨に襲われることはあるが、時の経過とともにその爪痕も癒え、まどろみの生活が再開する。ほとんどの人々はそうした単調なる生活に幾分退屈を感じているものの、同じ境遇にいる者同士でその満たされぬ思いを共有したり、つかぬ間の非日常的空間の体験といった人生のスパイスで概ね自分の人生を受け入れている。しかし人の中にはそうした感情の振幅の狭い生活に飽き足らぬ物を感じ、そうした生活がしばし続くと心のうちに絶望的無力感が頭をもたげ心苛み生死のギリギリの地点まで追い込みたくなる者もいる。。
「今生きている実感がほしい。」と彼らは一様に心の中で叫ぶ。程度の差こそあれ、我々みんなのうちに潜むそうした生命体として全神経を震わすような熱い時を過ごしたいという欲求を、いかにして肯定的に消化する道を見出し、生涯に渡って炎の様な人生を全うした、ある面では平凡な生活に耐えらなかった不幸な種族の代表者について今日は語り合いたいと思う。
不幸な種族
彼らの不幸は、ほどほど、そこそこ、と言った曖昧で中途半端なことを受け入れることのできない資質にある。彼らは矛盾、不合理、虚偽等に満ち満ちた世間の常識、因習、習俗に反抗期の子供の様に「何故?」「何故?」と鋭敏な妥協を許さぬ理性のメスで切り刻み、自分の論理で納得しようと再構築を試みる。彼らの絶対的に信じられるものをこの手で掴みたいという欲求は、自分の生死に関わる故切実でl直線的だ。宗教、哲学、文学、家庭の中に、又は仕事を通して自分の実存の確固たる地盤を求め探索に探索を重ねる。 しかし彼らがそこに見出すのは相対的私見、嘘っぽい楽観主義的人生観、心の不安、苦痛を軽減させることを目的とした人間の願望のみで失望の連続だ。その絶望感を回避しようと時として憧れの異性、偶像化されたアイドルを崇拝し空想の世界にしばし逃げ込む。しかしその崇拝の対象を溺愛することはなく、いつも醒めている自分がいる。ゆえに彼らは色恋には精通している。彼らの心の奥底には深い無常観と厭世観が横たわっている。それは彼らの飽くことを知らない精神的探索の結果、人間存在の秘密のベールを覗き込んでしまった故かもしれない。その心のうちに垂れ込めたニヒリズムの霧を日本刀で一刀両断に切り裂き、生死のギリギリの戦いの末、生きる方向に舵は切り、情熱と生命の賛歌の行動哲学を打ち立てた者がここにいる。三島由紀夫だ。
高貴なる野蛮人
彼は戦後、知識人を中心として世の風潮が大きく左翼思想になびいていく中で孤独を感じていた。
自分の屈辱より名誉ある死を望む誇り高き騎士道的精神、異常のまでの耽美的美意識、戦国武将の如く一人日本刀ひとつで敵陣に乗り込んでいくヒロイズム的性格。そうした単独者的性向は「
みんなで一緒に手を取り合って」的思想には相容れるはずがなっかた。又理を捨て神の前で額ずく宗教の世界に入っていくには彼の離群生の性格が邪魔をしていた。それでは自分特有の個性を
受け入れ自分のロマンチズムを満たしてくれるものは何処に?その問いに答えてくれたのが武士道であった。彼は理知への偏重は干からびた冷笑的人間を作り、ともすればニヒリズムの深淵に
陥ることを知っていた。一撃の下に命を葬ってしまうまばゆい怪しげな光。死といつも隣り合わせの意識、そこに自己の怠惰さを払しょくし生命のエネルギーを昇華させる源泉を見出した。又、自己のロマンチズムを満たしてくれる物をも。剣道は礼をした後、相手をぶっただく。ただそれだけである。そこには天井思想も形而上学もない。ただ峻厳な規律、道徳、様式美があるのみだ。神も信せず、緑の芝生に赤い屋根のマイホームの生活にも自分の心の拠り所を見出せなっかた人間。その人間は死という危機の意識によって救われ、そこを土台にして彼の芸術家
としての美意識、創造性をもってして生きる行動哲学を樹立した。しかしそこには常人が近ずき難い純粋すぎる精神性と死の匂いがする。彼の哲学は現代人が文明の進化と共に失った野生への郷愁と、精神的貴族を愛する性向を併せ持った高貴なる野蛮人の哲学と言えるかもしれない。
.What do you think?
確かに彼は才能に恵まれ、極端な形で自分の生きる道を見出したとは思うけど僕達は彼の生き方から多くのことを学べると思うな。まず彼は自分がいかに自堕落になりうるかをよく知っていた事。そして自分が自分の人生を送るためには自分を突き放す程の自己に対する客観的知識を持ち、その土台の上に他人の借り物ではない自分自身の人生観を組み立てた事。そして自分を信じ、その高い目標に向かって妥協せず命を賭して日々精進を重ねた事。ちょっとマッチョな肉体を作り上げたのは、精神と肉体が相互作用することを知りぬいた故だと思う。もちろんそこには彼の古代ギリシャの世界への憧れも多分に影響していたとは思うけど。結局のところその努力を支えたのは小泉元首相の場合もそうだったけど、そうしなければ自己破壊しかねないという危機的悲壮感だったと思う。寸前のところで兵役を待逃れた「一度死んだ命」という意識も手伝っているとも思うけど。彼は死の意識を持って人生のエネルギーに転嫁させた。それが僕はひ弱な文学青年からサムライへと変貌させた一番の要因だったと思う。やっぱりいつの時代でも、自分の納得する人生を送ろうと思たら、欲望、情念、生死の様な人間の根源的本能のようなものを肯定的エネルギーに転嫁して行く以外に術はないのではないかと思う。これが僕が三島由紀夫から学んだ最大のことです。
あなたの場合は?

絶版古書進呈: 今40年ほど前に書かれた三島氏のエッセイ「若き侍のために」を所有しています。ご希望の方はその旨このブログを通してお申し出ください。

0 件のコメント:

コメントを投稿