「淋しくない?」 「以前程では」
11:pm。 夜は深く重い。今日もまた独り自室にて自己と向かい合う。この静寂に包まれた濃密な時。深々と永遠のベッドに身を委ねる。そんな日々にある友は問う。「淋しくないの?」僕は「以前ほどでは。淋しさ以上の苦痛を経験したから」と答える。淋しさの語感にはほろ苦い失恋に似た感傷の響きがある。そこには平安貴族の様な長い袖で涙拭う繊細でか細いひ弱な心がある。感傷と無常心とは違う。無常心は涙さえ干からびた少女の瞳の現実の直視がある。感傷的人生観には人生の波間に漂い小事傷つき翻弄され、人生の絶頂期にさえ死の影に心曇らす定めがある。一方
世の無常を直視した人生観には、一時の救いの見えない虚無感、あてどない途方感、胸締め付けられる寂寥感に胸引き裂かれる夜が途上待ち受けているものの、人生の暗部を全見てしまった妙な開き直りと根源的自己に立ち返り揺るぎない平安なる心へと歩みだす可能性を秘めている。今回は皆さんと人の一生において心の奥底から立ち上ってくる微かな無常心の呼び声を段階的に耳を澄まして聞きたいと思います。人生に負けない心を作るために。
最初の呼び声
はっきりとした肉体的記憶の欠如を年長者から聞いた話や、過去の写真を繋ぎ合せ構築した幼年時のおとぎの国のような世界に亀裂を起こすのは通常愛する人もしくは動物の死だ。僕の場合もそうだった。一緒に住んでいたおばあちゃんが死んだ。6歳の時だ。その時起こった感情は今考えてみると祖母の死に対する悲しみというより死そのものに対する生命体としての本能的恐れだったと思う。生きとし生きる者には必ず終わりが来る。僕もいつの日か!この非情な現実はそれまで何の屈託なく遊戯に興じていた子供の小さな心に人間社会の背後にお化けの世界に似た世界の実在を予感せしめ、小さな影を落とす。
思春期
僕が教えている13歳前後の生徒はよく死後の世界について口にする。僕もその年齢の頃生の空しさを漠然と感じ不安な日々を送っていた記憶がある。又その頃だったと思う。性に目覚めたのは。自己の有限性の自覚、そして自己の存在の複製へと導く生の目覚め。この一見無関係に見える二つの事件は自己の意思とは関係なく大自然の生成の一環としての働きで本能が自己の存在の消滅を予感し、その準備として性の目覚めがあると解釈できうるかもしれない。この時期特有の不安感、孤独感、物憂い感情は死すべき運命にある生物としての憂いなのかもしれない。
青春期
「分かって欲しい」 「認めて欲しい」 「心温めてほしい」 この理の目覚めと共に経験する絶望感、不安感を癒して欲しいと願う気持ちは切実なものがある。理は知ってしまった。暗黒の宇宙にぽっかり浮かんでいる地球は永久に存続しないということを。この動揺を鎮めようと生涯をかけた模索が始まる。理は哲学へ、精神は宗教へ、情念は快楽は、中庸は家庭生活へと。この時期の実存的問の真剣度が彼の人生の地盤強度を決定する。しかし多くが人生の持ち時間の余裕から、まどろみと感傷的人生観に陥るのが常である様に思う。
壮年期
自信満々に闊歩する壮年期の大人を見る。そんな彼らに問う「あなたのその自信の根拠は?それはこれまで築いた家庭、社会的地位、名声か?」と。再度問う「あなたは時として青春の心に戻って
自問することがあるのか? その自信の背後に無常の風が吹きずさみ、底なしの深淵が大きくぽっかりと口を開けていることを?」 彼はぞんざいに答える「そんな青臭い話をしている暇はない。
それにそれは先の話だ。」と。実は、彼は最近疲れやすくなったと感じ、人生の秋の予感を感じていた。が、欲望の充足を目的とする日常生活に護られ、人間に備わった楽観主義的傾向、不快なことには心理をも欺いても目を背けようとする人間の本能から、無常の声は彼の心には届かなかった。そんな彼をつい最近見かけた。今までの自信に満ちた面影は消え去り、不安な目が虚空を見つめていた。癌だという。先の話ではなかったのだ。
老年期
物心ついた時から、何か になろうと生きてきた。しかしその何かを作り上げている諸条件が一つ一つ剥げ落ちていく。白髪、知覚神経の低下などの肉体的老いの兆候はもとより、知的能力の減退等。今まで欲望の下に埋もれていた無常の声は全てが剥き出しになった不毛の荒野に鳴り響く。隠れよう。今まで築いた何か の影に、色褪せた人生遊戯の影に。しかしどこに隠れようと無常の声は心のうちから湧きあげる。友との打ち解けた談笑が途切れた一瞬の沈黙の中にも。全てが自分から離れていく。隠れる場所はない。しかし真の人生はここから始まる。
淋しさよ!永久にさようならへの道
無常の声は遠い太古から綿々と続く波動だ。その波動は人の心にそっと入り込み熱した頭に全ては仮の姿であると囁く。その声がいつ心に届くかは、個人の性向といつ内的深い経験をしたかによる。仮のすがたはいつか真の姿に向き合わねばならない。真の姿は色絶えた弧絶な風光の中に
ひっそりと佇む。そこには何事も受け入れた強靭な精神の強さと穏やかなる内なる微笑みがある。
この地点に達し人は初めて真の平安とあらゆるものに対する愛おしさを知る。次回はそうした内的経験をした我々の大先輩について語り合いと思います。
0 件のコメント:
コメントを投稿