2015年8月21日金曜日

性的忘我 VS 悟り (無心) 

                                                             - 神も仏も信じられない人の最終帰依所 -

孤独者同士の偶然の出会い

20歳代後半。異郷の地。話し相手もなく、一週間以

上誰とも話さない事がよくあった。孤独だった。温か

い眼差しが欲しかった。道行く人々たちの何気ない

笑い声、街の賑いは僕には無縁だった。そんな

日々が続く中、ある日偶然一人の女性と出会った。

彼女も異国の空の下で粗末の食生活で体調を崩

し、心許せる友もなく、寂しい日々を送っていた。僕

たちは砂漠でオアシスを見つけた如く、その日夜遅

くまで語り合った。そして・・・・寂しさを癒すかのよう

にお互いの肉体を狂おしく求めあった。果しなく続く

かにみえた激しい抱擁。彼女の目が僕の目の近くにあった。凍てついた孤独がお互いの胸の中

で溶解していくように感じた。その間僕は彼女を求めるという行為の中に没入した。その時世界

は消えた。一刹那の肉欲の耽溺と人は称するかもしれない。しかし今思い返してみると、自己と

外界を隔てる自己意識は消え去り、時空間を超えて無限と自分がぴったりと一体となった時だっ

たと思う。


アルプス裾野の老朽家屋の塗装を通しての内的経験

僕のイタリアの甥は筑後100年の3階建ての家の塗装を一人で

任され、それに従事していた時の事をよく口にする。彼は語る

「翌日起きると体はクタクタ。でも不思議な事に、あのシンナーの

いを嗅ぎ、ペンキでシミだらけになった作業服を着ると、何か

が体を動かすのを感じたんですよ。そして無心になって刷毛を動

かしていると、顔では笑っているけど心の奥底では「これではい

ないのだ。」と、自分の弱さ、不甲斐無さの自責に苦しんでい

た日々の生活では経験したことがなかった充実感、いや幸福感と言っていいのかもしれない。そ

んなものを感じたんですよ。その幸福感は夜一人で粗末な夕食をとっている時じわ~って心一杯

広がってきたんですよ。塗装を終わらせる事。そのうちから突き上げてくる何者かの力に従うこ

と。その時そうする事が最も正しい選択であると無条件で感じたんですよ。」と。

悟りとは?

上記のような経験は日常生活の中で誰でもが経験しうるもので

あると思うが、そうした経験を称して「悟り」となると多くの者は

「それは悟りに対する冒涜だ!」と強く反発するであろう。しかし

「悟りというのはこういう状態なのだ。」と概念化、規定化するの

は禅が最も否定するところで、僕が理解する「悟り」とはこれとい

った特定の相貌はなく、どんな相貌にもなりうるもの、又一時

も留まることのない流動の状態にあるものと解する。それでは

「悟り」を表すキーワードを考えてみよう。無我、無心、無分別、主客合一、成り切る等がそれで

あると思うが、どうであろう?上記の各々の経験は悟りの状態に類似しているといえないだろう

か?


悟りへと駆り立てる力

悟りはノーベル賞とは違う。現世の労苦に対して授与される勲

章ではない。命を賭しての一生涯に渡る求道、、自己を完全に

無化する事によって獲得するもの。それが悟りだ。世の称賛は

い。あるのは揺ぎ無い絶対的心の平安と自己の全面否定を

通して無限の揺り籠に身を委ねる無心を手に入れることだ。世

の人は現世の全ての楽しみを放棄して何故そこまで?と問う

かもしれない。それは僕も20歳頃経験したことだが、絶対的根

拠のあるものはこの世に存在しないという自覚と共に無限とい

う深淵に陥り、恐怖と不安で血が凍結するような日々を過ご

し、この心の痛みを少しでも和らげずにはもうこれ以上生けて

いけないという崖っぷちまで追い詰められた経験故だと思う。僕は思う。我々の人生の苦悩を生

み出している根っこにあるのは、とりとめ無き実存的不安感、途方感、であると。いきなり見ず知

らずの所に投げ出され、自分がどこにいるのか?どうしたらよいのか?も分からずにただ立ちつ

くしているあの子供の不安感、狼狽感だ。実は幼児でも本能的に知っているのだ。我々の人生

は結局のところ、得体の分らない所をグルグルとただ動き回り、終局は大自然の生成の変化に

飲み込まれていくことを。みんな忙しく動き回っているのは、その屈するしか術のない大自然の

冷厳なる力を本能的に直視するのを避けているからだ。

欲望による救済

だが幸いなことに、僕達は生れた時欲望を付与された。欲望で

心を奪われている時、僕達は日常生活の水面下でヒタヒタトと確

実に流れ続けている時の大車輪の音を聴くことはない。

しかし欲望は長くは持続しない。すると又あの実存的不安感が

シラケ、退屈という形で僕達の心にそっと忍び込む。人生は実存

的不安感に依拠するシラケと、とりとめ無き不安感を忘却

するために僕たちに与えられた欲望の充足に向けての奔走の繰り返しと言っても過言ではな

い。


無心即ち神仏なり

僕が異郷の地で出会った女性と抱擁という行

為に没入していた時、僕の心の中には全くと

言ってよい程不安の入り込む余地はなく、自己

を対象化する意識は行為の中に喪失していた

と思う。おそらく甥の場合も同じ様な心境では

なかったか?と推測する。僕に限って言うな

ら、あの時孤独が僕の心を真綿のように重く締め付け、その痛みに耐えていた。その反動がああ

した獰猛なまでの狂おしい性的行為となって表れ、結果として性の極みが死にも近いと思う程自

己忘却の領域にまで達しさせたのだと思う。僕は思う。人はそのような心の状態に没入した時の

み、真の意味で老病死といった実存的苦悩から解放されるのではないか?と。又、故に一時的

にせよ無我、忘却、といった悟りの状態と似かよった相貌を呈するのではないか?とも。僕は悟

りとは僕達がこのあずかり知れぬ世界に投げ出されと時から無意識のうちに心の奥底で希求し

てやまない永遠の究極の古里、帰依所であると思う。そこへの到達は全ての人為を離れ、身も

心も大自然の懐に投げ捨て、無心が永遠に触れた時初めて成就するものだと思う。その最も高

い精神的境地に達した求道者、及び状態を称して人は神・仏と呼んでいるのでは?つまり「無心

即ち神・仏なり。」なのではないか?


ピン・コロ思想

現在数多くの人々が、心の奥では老病死の不安を抱えながらも

永遠の心の古里を持たずにそのその日の欲望の充足に助けら

れて生きている。その人達に真っ向からそうした話題を向け

ると煙たそうな反応が返ってくる。人々の宗教感情が希薄な日

本ではそれが顕著だ。彼らの心を占めているのは「ピン・コロ思

想」だ。つまり死ぬ一瞬前までピンピン元気で、死ぬ時は苦しま

ずあっさりと生を閉じる究極の現世思想だ。


しがみつきたい、何処かに

しかし不安は存続する。彼らの心の奥深い所にも。それは年々

深く重くなる。すると余計勝手知ったる今までの現世での価値観

にしがみつこうとする。欲望、家族、過去の栄光などに。しかし

それらは心の癒しにはなるが今の不安を根本的に救ってはくれ

ない。持ち時間は短くなる。刻々と。病院では医師に見捨てられ

た患者の落ち窪んだ眼の中の弱弱しい光が虚空を彷徨う。

「自分はひとり死んでいくのか?」とその目は問う。しがみつきたい。何処かに。この時点での救

済は理を超えた最後まで自分を見捨てない全てを受け入れてくれる神・仏の様な絶対的大きな

愛の胸だ。だがこの土壇場に来て、心に巣食った御利益的宗教観、科学万能絶対主義が信仰

の受け入れを拒む。


無心思想による救済

そうした人々に僕は無心思想を勧

める。無心には現世と来世の分断

ない。それらは永遠に続いてい

のだ。分断しているのは我々の

と自を分ける自己意識で生と死

垣根はないという。確かに全て

存在は我々の脳による認識に

拠している。万物は自己がいな

くなったら果して存在続けるのだろ

か?万物を認識している主体が

え失せた世界とは?ここに無心思想の素朴のメカニズムの核心があるように思う。ではいか

にして無心思想に近ずけるのか?それは単な事だ。ただ、自己を大自然の生成の変化という

大海原に身を任すだけのことだ。自己の全てを人知を超えたものに身を委ねる。ここに全ての宗

教の本質がある。禅も含めてだ。試しに自己をしばし大自然の大河に投げ捨ててみると、何と心

軽やかの気持ちになれることだろう。自己の認識が関与しないその世界が真の実相の世界だと

は僕は言わない。しかしそこには既存宗教の垢がなく、大草原を横切る清々しい緑の微風が優

しく吹き抜けているようではないか!そして何か大きなものにしっかりと抱かれているというよう

なそんな安心感を与えてくれるではないか!そんな世界が「もしかしたら」あるかもしれない。そ

の「もしかしたら」を無心思想は提供し、信じたい、しかしという人々に心の絶対的拠り所を与え

てくれるような気がするのだ。それはある。われわれの意識の背後に。そう信じ生きていこう。心

安らかな人生を送る為に。










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