2018年12月20日木曜日

インドに救いを求めて (禅の出発点)

インド放浪へと
数十年程前、僕はインドを6カ月程放浪したことがあります。日本での些細な事にも「いい加減さ」を許さない過度の管理社会に全細胞が硬直化するのでは?と言う危機感を覚えると共に、人々の振る舞い、言動の嘘くささが耐え難くインドのカオスと全てが剥き出しの社会に一息つこうと旅立った訳です。そこには僕が想像して以上の物がありました。
     
インドで見たもの
人や動物の排泄物や腐乱物が無造作に散乱したスラム街、焼け付くような太陽の下で一枚の板の上に乗せられ数人の人の肩に担がれ街を縫って火葬場へと運ばれていく死体、絹のサリーを優雅に着飾った婦人たちの行き交う繁華街の路上で、らい病におかされ手足が歪み立つ事さえできず体を地面に横たえたまま物乞いする老婆等、人生の負の側面を余すことなく伝えておりました。                                                    
新たな人生の出発点(尋牛)
禅の書物に「十牛図」というものがあります。それは最終的に何があっても揺れ動かない絶対平安なる心の境地に達する
迄の段階を十に分けた本でまず第一段階は真の自分を失った
事に気ずき、その自己を求める尋牛[牛は真の自己、牛使いは自己意識の象徴)です。僕にとっての尋牛は正に心の内からインド行を渇望する気持ちが起こったという事にあると思います。その当時の気持ちを振り返ってこのブログに記してみました。インドにはすり減った心を甦らせてくれる強烈なパワーがあります。又、「人生そんな構えなくてもいいんだよ。」と息詰まった心を和らげてくれる「いい加減さ」があります。このブログを通し僕が経験した思いを分かち合える
人がいれば幸いなる次第です。                                       
                          
  

仏陀成道の地へと
僕をインドで出迎えたものは、余りに強烈であった。どぎつい極彩色の風土、淀んだ熱風、路上の牛の糞尿、執拗に追いすがる物乞い、人々を射抜くような鋭い眼差し、粗暴な身のこなし。僕の率直な反応は拒絶反応であった。しかし後に戻る事は選択肢はなかった。不安と乱れた心を押し隠し、一路
仏陀成道の地ブッダガヤへと向かった。ガヤと言う駅で汽車から降りた後、自動三輪車に乗り継いだ。もう遠く離れて
いなかった。二千五百年ほど前、当時一苦行層に過ぎなかったブッダが、実際歩いたところを今三輪車に揺られながら通っているという思いは、特別な感があった。途中乾いた川岸
に白牛の大群が、のんびりと横たわっていた。その川岸の対岸は、長い修行の末弱り切った仏陀にミルク粥を差し伸べた
娘の名前から取られた、スジャータの村があった。二千五百年前がそこにあった。

ブッダガヤの町で
ブッダガヤの町は、仏陀成道の地に反しないものがあった。
日本、タイ、チベット、ブータン、中国等の各国の寺寺が林立し巡礼者に満ち溢れ、各々の寺ではメディテーション、セミナーが盛んに行われ、世界各国の人々を吸収していた。路上ではインド特有の花火の様などぎつい色をした線香、数珠、宗教絵本等が売られ、否が応でも町全体宗教ムードを作り上げていた。街の中央に位置した仏陀成道の場所に建立された大菩提寺では、チベットのラマ僧の呪文が流れ、体全体を大地に投げ出し、又起きては投げ出す「五体投地」と言う荒行を延々と行っている僧もいた。
ブッダガヤ到着の翌日僕は数人の西洋人と共に、日本寺にて
生まれて初めて座禅を組んだ。重奏な鈴の音がただ広い堂内
の空気を震わせ、張り詰めた緊張感を与えていた。勤行が唱えられ、その後は静けさの世界だった。時として蚊の飛ぶ音が聞こえ、あちらこちらに蚊取り線香の煙が立ち上っているのが見受けられた。時間は止まっていた。穏やかな気持ちが
僕の心をとらえた。そこには僕が今まで経験した興奮も、感激も、心の高揚もなかった。しかし心のつかえが取れた様な
快い解放感があった。

ダライラマが来る
宿への帰路、沿道に無数の人垣が埋まっていた。チベットの宗教指導者、チベット人にとっては仏陀の生まれ変わりとされているダライラマ来訪を待ち受けるチベット人の集団だという。老若男女、その中には西洋人さえ混じっていた。それは異様な雰囲気であった。体当り的であり、全てを託している様さえ感じた。信仰。言葉で知っていたが、その生きた形を見るのは初めてであった。エネルギーが迸っていた。その晩宿で町の本屋で買い求めたチベットの本を、夜遅くまで読み耽った。
鳥葬をを見て生気が
本の中の写真が壮絶なシーンを伝えていた。それはバラバラに切り裂かれた人体の肉片を啄む鳥の群れであった。写真の遠景には広大なヒマラヤ連山の裾野に平原を眼下に、大きく
弧を描いて飛翔する鳥の姿であった。役目を終えた肉体は,他の生物の中で新しい細胞を生み出す。それは万物生成の変化の縮図であった。またそれは人間的感情すら寄せ付けない
厳粛なる太鼓以来の真実の世界であった。本はその写真が高名なる僧の死の際等に行われる「鳥葬」と言う名誉ある弔い形式であることを説明していた。人間は大自然の中では卑小な存在であった。何かが僕の心の中で薄らいでいくのが感じた。それは僕の中で中核をなし、誇りにさええ感じていた西洋的自我の意識であったかも知れない。失われた生気が甦ってきた。何か今までとは全く異なった発想の肯定的な事をやってみたいと言う気持ちが湧いてきた。日本寺で出会った西洋の若者のコルカタのマーテレサの下でのヴォランティア活動の話が思い出された。その思い付きはその時の僕の気持ちにぴったりと合った。翌朝、大菩薩寺に丁重に礼拝し一路コルカタへと向かった。


マザーテレサの愛の施設
マザーテレサの”死を待つ家”は、コルカタの中心街からバスで約十数分の所にあった。その施設は、路上で倒れた寄る辺ない人たちの収容所で、マザーテレサのシスターたちを中心としてマザーの愛のメッセージに共鳴した世界の若者達によって運営されていた。運び込まれたほとんどの多くは、不治の病に冒されており、簡単な医療手当を受け間もなく死んでいった。そこでのヴォランティア活動は特に一定の決めれた仕事はなく、体の不自由の者には入浴や食事の手助けをし、又食器を洗ったりすることを主たる日課としていた。時として爪を切ってやったり、手や背中を摩ってやったり、各自気持ちの赴くままに、自主的に自分の気持ちを表現することに主眼が置かれていた。ヴォランティア参加者の中には自国でPHDコースを取得した後、直ちにこの活動に参加し、すでに六か月を迎えようとしている西洋人もいた。

献身的シスター

ここにいることは決して楽な事ではなかった。緊張感が支配していた。死の臭いがした。収容された者のほとんどが観念したように運命を受け入れ、ただひたすら最後の時が来るのを待っているようであった。痩せ細った腕、生気の失せた顔色、全身火傷で捲れ上がった皮膚、虚空を見つめる眼差し、全てが人生の暗部を呼吸していた。かつて僕は自分の労働に対し報酬を得ることは当然と考えていた。しかしここでは違っていた。全てが無報酬であった。幾度となく僕は立ち去る正当性を考え出そうとした。しかし献身的で明るく振舞うシスターたちの姿に自分を恥じ、理性は僕にここに留まる事を命じた。シスターたちの働きぶりは目を見張るものがあった。「何が彼女たちをそこまで突き動かしているのだろうか?」と、僕は自問した。聞くところによると、彼女たちの多くが何不自由ない家庭で育った中産階級出身の娘さんであるという。理性的、合理的判断ではなかった。そこには僕の推し量ることの出来ない大きなもの、絶対のものが彼女たちを動かしていた。


運ばれてきたインドの乞食
ヴォランティア活動も、二週間目に入ろうとしていた。いつもの様に入口に掛かったキリスト受難象のレプリカに目をやりながら、薄暗い室内に入ると騒ぎが起こっていた。騒ぎの中心にボロを纏った老人が弱弱しくうずくまっていた。髪は
埃と汗でベッタリと頭にこびりついていた。さっそく消毒液風呂の体洗いが始まった。痩せ衰えた体は軽そうに見えたが
他人に全てのみを預けた体は意外と重かった。タワシの様なヘチマで、なんども力を入れて洗った。体を洗い終えた後、散髪が始まった。まず温水を伸び放題の髪に十分かけ、ハサミでジョギジョギと無造作に切り落とし、その後たっぷりと虎狩になった頭に石鹸を泡立て,カミソリで坊主頭に仕立て上げた。その間路上の人は、意味不明のヒーヒーと言う声を
発するのみであった。そして十数分後、小ざっぱりと変身した身寄りのない患者は毛布に包まりベッドに静かに横たわっていた。その日以来、その老人の面倒を見るのが僕の日課になった。

重症の老人と共に
その老人は重体であった。見動き一つ出来ず、一匙のスープでさえ喉を通すのがやっとであった。食事は時間がかかり,五匙程のスープで一回の食事は終わった。排泄物はその場で
容器に行った。老人は終始大きく見開いた目で天井を見つめ、しばたきを力なく繰り返した。リンゲルが打たれた。容態は回復する兆しはなく時間の問題だった。ある時、水を飲ましてやっていると老人の目が自分に注がれているのを僕は
感じた。無防備な目であった。何の装いもなくその眼は僕の
顔を見つめていた。そこには死への不安と恐怖があった。これ程まで包み隠しもなく死への恐怖を訴えた目を見たのは僕は初めてであった。数日後老人は死んだ。その日僕は老人の死体を純白な布で覆うのを手伝い、最寄りの火葬場までついて行った。老人の顔は生前よりずっと穏やかな表情を浮かべていた。

老人の死後心にポッカリと穴が
ヒンズー教徒の誰でもが望む生の末路は、ガンジス川の川岸で家族に見守れながら荼毘に付され、その灰を流されることだというのを僕は聞いたことがあった。滅びた肉体が火によって化学変化を起し、一部は天空に塵埃と帰し、一部は大河に消えてい行くこの自然の大摂理を僕は今、自然に受け入れることが出来るような気がした。”死を待つ家”でのヴォランティア活動も一か月が過ぎ去った。僕が死を見届けた老人がいなくなって以来、ポッカリと心に穴が空いたのを感じた。
休息が必要だった。ヴォランティアの仲間からコルカタから
電車で数時間程行ったところにあるプリと言う避暑地を勧められた。数日後その地に旅立つことにした。

次回のブログではヨギ行者との出会いや、瞑想的雰囲気に包まれたタゴールなどの詩人にインスピレーションをもたらしたチルカ湖での月の出の体験などについて記したいと思います。











































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